「スピリチュアル」が跋扈する現代の問題点

世の女性達がハマりやすいオカルトめいたものといえば、「スピリチュアル」と呼ばれる世界だろう。

この世には、普通の人間の目には見えないものが存在し、選ばれた特別な人物や特殊な修行をした人物のみが、それらを垣間見る術を心得ているとされている。

女性達はそういった“特別”な「スピリチュアルカウンセラー」と呼ばれる人々に自分は現世でどういった役割があり、どのように生きれば良いのか、言ってみれば自分自身の人生の「意味」を指南してもらおうと殺到する。

残念ながらいわゆる「霊能力」といったものに関しては、今のところ存在を否定する要素も肯定する要素もとりたてて発見されていない。
そのため、もしかしたらそういった特別な存在がいるかもしれないし、いないかもしれないという、
非常に曖昧な状態が放置されたままになっている。

つまり、とても残念なことにインチキもまかり通りやすいことになる。


実際、不安に怯える人々に「これを買えばあなたの運気を上げられる」などと言って、何の科学的根拠もない開運グッズを高額で売りつけ、後に詐欺事件として立件されるケースも後を立たない。

この背景には、長く続く世界的な不況や、先行き不透明な社会情勢など、人々の「不安」を大きく招く要因がありふれているという点が大きいだろう。




「オーラ」という概念


この「スピリチュアル」の世界で切っても切れない概念が「オーラ」と呼ばれるものだ。

実際にこのオーラが「見える」という人物曰く、肉体の周囲に色付きの光が見えるのだという。

それらの色合い、光り方などといった要素から、鑑定をする相手の性格、
抱えている問題を察知・分析することが可能なのだそうだ。

中には更に一歩進んで、「ミディアン」あるいは「霊媒師」と呼ばれる人々の中には、
そのオーラの更に奥、あるいは外側にスクリーンのようなものが浮かび上がり、
その人の祖先からのメッセージや、抱えている問題の場面などが映し出されるのだという。

もちろん、これらに現段階で科学的な根拠を見出すことは難しい。
解明のために尽力している専門の研究者も当然少なく、
それが可能になったからといって、人類にどれだけの価値があるかも解らない。

しかし、中国が発祥とされている「気功」であったり、インド哲学における「プラーナ」、「チャクラ」など、
「オーラ」に近しい概念は人類史において、かなり古い段階から存在している。
概念として存在している以上、「何か」はあるのではないか。


「共感覚」の持ち主


「共感覚」というものがある。

人間には「視覚」「聴覚」「嗅覚」「味覚」「触覚」という五感が存在している。
基本的にこれらは独立して機能している。

食事をすれば、食べ物が舌の上にあるという状態を「触覚」で知覚し、その食べ物がどのような味かを「味覚」として感知する。

鼻腔をその食べ物の香りが通り、「嗅覚」が刺激される、といった具合だ。

同時並行的に機能はしていても、それらがごちゃまぜになることはない。

しかし、人類の中には非常に特殊な感覚を持つ人々がいる。

例えばある著名な音楽家は、ある特定の音を聞くと、その音に対して「色」を感じるという。
この色は赤、次の音は黄色、そこからグラデーションのように感じることもあるそうだ。

あるいは、ある特定の色を見ると、何も口の中で食べては居ないのに、
甘味や酸味など、「味」を感じるという人物もいるという。

これは本来、混線するはずのない別個の感覚同士が何らかの形によって脳で関連付けられ、
同時に反応してしまう現象で、「共感覚」と呼ばれている。

脳科学者の間でもこの不可解な脳のメカニズムについては意見が様々に分かれており、また症例も少ないがために、解明が遅々として進んでいないのが現状だ。

「オーラ視」は共感覚の発露?


ここで筆者はあるひとつの仮説を唱えてみたい。

それは、いわゆる「オーラが見える」という人々が見ている何らかの特殊な現象は、この「共感覚」の持ち主であるが故の、特殊な視界の一種なのではないか、という話だ。

人間は些細な動作にその人の生活上の癖などが出る。

また顔つき、視線の配り方、好む食べ物、言葉の使い方などなど、その人物の特徴となりうる情報というのは、それこそ無数に存在する。

コナン・ドイルが生み出した名探偵シャーロック・ホームズであれば、それらひとつひとつを自分が学んだ知識と照らし合わせて、「あなたは医者で、片足を怪我していて……」といった風に推理できるのかもしれない。

「オーラを見る」という行為をしている人物というのは、こういった目の前の人物に対する情報収集をいわば無意識レベルで行っているのではないだろうか。

そういった非常に広範な「知覚」の中で主となるのはやはり「視覚」だ。

そして「視覚」によって収集した情報を「脳」というフィルターで整理した後、その本人がもっとも理解しやすい「感覚」として反応させる。

それだけ「視覚」を広範に使っている以上、やはり最も彼らにとって馴染み深いのは「視覚」だ。

また総合的なデータは解りやすければ解りやすいほど、説明がしやすく、受け止めやすい。

その結果として選ばれたのが「色」という概念なのではないだろうか。

つまり情報を集積する「視覚」と、情報の分析をする「脳」に、「色覚」という感覚が複雑に絡み合った、特殊な「共感覚」なのではないか、という説である。


人間は人間を超えることはない


もちろん、先にあげた仮説に対し、現在のところは科学的な根拠や裏づけはなく、
真実を知るには今後の脳科学の発展を待つしかないだろう。

とはいえ、もしこういった形で一定程度の理屈が通るものなのであれば、
それは残念ながら決して「特別な能力」ではないと言える。
解明はされていないだけで、人間の機能の限界を超えたものとは言い切れないからだ。

その人物はこう言うかもしれない。

「私には特別な力があります。私のことを信じ、言うことに従ってください」

誰かの意見に従い、自分の思考を停止させて生きるのは非常に楽だ。
全ての指針を相手が決めてくれる。自分はその通りに生きれば良いだけ。

しかし、そうやって紡がれたあなたの人生は、本当にあなたのものだと言えるのだろうか。

その人物は特別なのではない。
他の人とちょっとだけ、何かが違うだけだ。

それはあなたも同じこと。
あなたにこそ、あなたにしかない特別な何かがあるのではないだろうか。

あなたが誰かの人生の奴隷にならないよう、筆者は切に願う。


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