なぜ、日本軍は頭がおかしいとされているのか?
海外から見て日本軍は戦争中に多くの戦争犯罪を犯し、特に中国や東南アジアでの戦争行為は残虐非道とされています。
これには、軍部や指導者層の暴走や戦時下の緊張状態、プロパガンダの影響など様々な要因があります。
また、戦争中の苦難やストレス、戦場での緊張感、恐怖心などが兵士たちの精神に影響を与え、非道な行為につながったとされています。
さらに、軍隊においては個人の自主性よりも統制が重視され、権威に対する盲従的な従順さが求められたことも、日本軍が頭がおかしくなり、結果として戦争犯罪につながった要因の一つと考えられています。
今回は、その背後にある歴史を紐解いてみます。
日本軍の成立
明治維新の際の官軍の実態は、
薩長を中心とした諸侯連合でしたが、戊辰戦争後の混乱期を経て徴兵制が敷かれると、明治政府の軍隊は急速に近代化していきます。
日本の明治時代は、日本が封建社会から西洋化・近代化を進め、明治維新によって新政府が成立した時期です。
明治期の日本軍は、西洋軍事技術を導入して強化され、大日本帝国陸軍と大日本帝国海軍の2つの主要な軍隊がありました。
陸軍は徴兵制を導入し、海軍は志願制でした。
日本軍は、1877年に起こった西南戦争で初めて本格的な戦闘を経験し、その後、1894年の日清戦争や1904年の日露戦争などの戦争で勝利を収めました。
明治期の日本軍は、一部の専門家によって高く評価されていましたが、その他の国々からは懐疑的な目で見られていました。
日本軍は、大正時代に入ると、1920年代に発生したシベリア出兵や、1937年から1945年にかけての日中戦争、第二次世界大戦などで活躍しました。
そうした日本軍の状況について初期の軍首脳は、兵個人は弱いという前提に立って軍を作って行ったので、自ずと
最新兵器の導入や新戦法の採用に積極的でした。
こうした路線の正しさは、西南戦争の際に立証されたといえます。
この後、軍首脳は一貫して新型兵器の開発に邁進します。
その結果が日清戦争や日露戦争での勝利へと繋がったのです。
ところが昭和になるとこうした流れは大きく変わり、最新兵器が無くても大和魂で敵を粉砕出来ると言う精神論が前面に出てきます。
日本の軍部は先進的な技術力による兵器開発を怠り、かわりに従来の戦術や武器に執着するようになりました。
これは、国内で広がっていた「大和魂」や「精神論」の影響が大きかったとされています。
また、昭和初期の社会情勢や経済状況が、日本軍の思考にも影響を与えたと言われています。
当時、日本は世界恐慌や農村の貧困化などの深刻な社会問題に直面しており、国民の間には失望感や不安感が広がっていました。
このような中で、日本軍が国民に対して唯一の救世主であるというイメージが形成され、軍部による強い支持を受けるようになったとされています。
日本軍が対外戦争で経験したこと
明治期の日本が対外戦争を経験したことにより、日本人には「不屈の精神」や「犠牲精神」、「団結力」といった精神が生まれました。
例えば、日清戦争では、日本軍が清朝軍に圧倒的な勝利を収め、その結果として台湾や澎湖列島を獲得しました。
この勝利は、日本国内での自信や誇りを高め、不屈の精神や犠牲精神を象徴する戦争として後世に伝えられることになりました。
また、日露戦争では、日本軍がロシア帝国軍を破り、アジアの小国が欧米列強に対しても戦うことができることを示しました。
この勝利は、日本人に団結力や自信を与え、また、近代化を進めるための資金や技術を得ることができました。
これらの経験が、日本人に対する自信と、国家を守るためには何が何でも勝利しなければならないという強い意志を形成し、後の日本軍の戦争においても、このような精神が根強く存在することになりました。
明治期の日本が対外戦争で経験したことは、主に以下の3つです。
日清戦争(1894-1895)
日本は清国に勝利し、台湾と澎湖諸島を獲得しました。
この戦争により、日本が東アジアの強国としての地位を確立することになりました。
乙未(おつび)の戦い(1894)
乙未の戦い(おつびのたたかい)は、1894年に勃発した日清戦争の中で起きた戦闘の一つです。
この戦闘は、清国が朝鮮における日本の勢力拡大を阻止するために朝鮮に派遣した軍隊が、日本軍に敗北したことで知られています。
当時、朝鮮半島は、清国と日本の勢力争いの舞台となっていました。
日本は、朝鮮において自国の影響力を強め、清国は朝鮮に自国の勢力を維持するために軍隊を派遣しました。
このような状況の中、日本軍は、朝鮮における自国の権益を守るために兵を進め、清国軍と対峙することになりました。
乙未の戦いは、1894年7月25日に朝鮮北部の黄海道鳳陽で発生しました。
この戦いで、日本軍は、清国軍の猛攻を受けながらも、新しい装備や戦術を駆使して勝利を収めました。
日本軍の優れた訓練や装備が、清国軍を圧倒した結果となりました。
乙未の戦いは、日本軍にとって初めての対外戦争であり、その後の日本の帝国主義政策の発展に大きな影響を与えました。
一方、清国は、この敗北により、朝鮮や台湾をはじめとする勢力圏を失い、その後の中国の国際的地位の低下を招くことになりました。
日露戦争(1904-1905)
日本はロシアに勝利し、東アジアの覇権を握ることになりました。
また、日本が欧米諸国と同等の国として扱われるようになり、列強の中でも一つの国として認められるようになりました。
これらの戦争において、日本は先進国としての軍事技術や戦略的な思考力を駆使して勝利を収めました。
しかし、この勝利によって得た自信や、他国を見下す傾向があったため、その後の日本の軍事思想にも影響を与えることになりました。
日本人の戦争に対する精神の変化
明治期の日本軍から昭和初期の旧日本軍にかけて、日本は軍事力の拡大を進めました。
昭和初期の旧日本軍は、1930年代に入り、日本国内での政治的混乱や経済の停滞を背景に、軍部の影響力が高まっていきました。
旧日本軍は、大正時代には近代化された軍隊であり、第一次世界大戦やシベリア出兵で活躍しました。
しかし、1931年の満州事変をきっかけに、日本はアジア地域での影響力拡大を目指し、次第に侵略的な姿勢を取るようになりました。
1937年の日中戦争を始めとする侵略戦争を行い、1941年には太平洋戦争が勃発しました。
昭和初期の旧日本軍は、技術面や戦闘能力の向上を進め、航空機や潜水艦、陸海空の兵器を開発しました。
また、軍部の指導の下、国民の教育や思想・文化面にも強い影響を与えました。
精神主義への変化
近代軍隊は、優秀な兵器とそれを使いこなす訓練された兵士によって成り立ちます。
これはいわば常識であり、
明治期の日本軍はそれを忠実に守っていたといえます。
ところが、日本が明治期に戦った清国やロシアでは、未熟な兵があまりにも多かったのです。
この事が、日本軍をして外国軍隊の兵は訓練が未熟だというイメージを植え付けてしまいました。
自分達の体験から、日本以外の全世界の軍隊はそうなのだと誤った類推をしてしまったのです。
昭和初期の旧日本軍が精神論に傾倒した背景には、多くの要因があります。
まず、大正時代に日本で広まった「国民精神論」という思想が、軍部の中でも支持されていました。
この思想は、日本の民族性や伝統文化に根ざした精神を重視するもので、軍人に対しても同様の考え方が求められました。
また、戦争においては、兵士たちが極限状況に置かれることがあります。
このような状況下で、戦意や忍耐力を維持するためには、精神的な強さが必要とされます。
そこで、軍部は訓練や教育の中で、精神論を用いて兵士たちの士気を高めようとしました。
さらに、旧日本軍は自己犠牲の精神を重視し、個人よりも集団や国家、皇室に忠誠を誓うことが求められました。
このような精神論は、一方では日本の伝統的な価値観に基づくものであり、また、軍部の指導者たちが強く支持していた思想でもありました。
日本の戦争を美化する宣伝
戦前の日本は戦争を美化するためにポスターや映画、軍歌、演説、手紙、絵葉書、日記、小冊子、神道や仏教の教義を利用した宗教的な啓発を大々的に行いました。
その結果、日本人に極端な国家主義や人種差別思想を植え付けることにもつながりました。
戦後、このような思想が日本社会に深く浸透したことが、日本の戦争責任についての議論を引き起こす原因の一つとなりました。
日本の軍国主義が台頭した背景
明治維新以降、日本は西欧列強に追いつくための近代化改革を進め、国力を強化しました。
この結果、日本国民の中には、西欧列強と対等に渡り合うことを求める思想が広がりました。
明治初期には、公使の一人であった福沢諭吉は、『西洋事情』という著書で、西洋諸国の文化や政治制度を研究し、それらを日本に取り入れることで、西洋諸国と同じくらいの文化的な発展を目指すべきだと主張しています。
また、明治維新後に制定された『五箇条の御誓文』においても、皇室を中心とした近代国家の建設が掲げられ、西欧列強と同じように国家を運営することが目標とされました。
こうした思想の変化が、のちに日本の軍国主義的な思想の基盤となることとなります。
民族主義の高揚
日清戦争や日露戦争での勝利など、日本の国力が拡大する中で、日本民族の優位性が高まりました。
このような中で、日本民族を優越的存在と位置付ける民族主義的な思想が高揚していきました。
日本民族を他国の民族よりも優れた存在と位置付け、それに基づいて国家の威信を重んじる考え方が広まったのです。
このような日本民族の優越性を主張する思想には、「大和魂」や「神国思想」などが含まれていました。
例えば、「大和魂」とは、日本人の武士道精神や忠義心、家族愛などを象徴する言葉であり、日本民族が持つ独特の精神を称揚するものでした。
また、「神国思想」とは、日本民族が神々によって選ばれた特別な民族であるという考え方であり、日本の国家的存在が神々の意志に基づくものであると主張しました。
このような思想は、日本人の集団意識や国家意識を高め、国家を守るためには自己犠牲を厭わないという強い意識を形成することに繋がりました。
この思想は、のちに日本の軍国主義的な方向へと発展することになります。
西欧列強の侵略に対する反発
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、アジア地域において、西欧列強の進出が加速し、植民地支配が広がっていきました。
このような中で、日本はアジア地域における西欧列強の支配に反発し、アジアの解放と自己防衛を掲げるようになりました。
日本がアジアの解放を行う必要性については、当時の日本政府や民間人たちの中でも様々な意見があったとされていますが、一般的には以下のような背景がありました。
まず、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、西欧列強がアジア地域において進出し、植民地支配が広がっていきました。
このことが、アジア諸国においては民族自決の機運を高め、日本においても、西欧列強に対する反発や自己防衛の必要性を感じるきっかけとなりました。
また、日本においては、アジアの解放を行うことで、自国の利益を追求することができるとの考え方がありました。
例えば、日本がアジア諸国との同盟を強化することで、自国の軍事的な優位を確保することができ、また、アジア市場を開拓することで、経済的な利益を得ることができるとの期待がありました。
さらに、当時の日本には、文明開化や近代化を遂げた自信があり、日本民族の優越性を信じる民族主義的な思想が広まっていました。
この思想から、日本はアジア諸国の指導的地位に立ち、西欧列強に対抗することができる存在として自己肯定感を高めることができると考えられていました。
以上のような背景から、日本がアジアの解放を行う必要性を感じ、アジア諸国との同盟を強化するなどの外交戦略を展開するようになったとされています。
大東亜共栄圏の思想
大東亜共栄圏とは、第二次世界大戦前の日本が提唱した概念で、アジア・太平洋地域における日本の覇権主義的な思想でした。
日本人はアジア諸国は、西洋列強による植民地支配から解放される必要があると考えていました。
そして、日本はアジア諸国を指導し、自由と独立を保障する役割を果たすことができると考えていました。
そのためには、日本はアジア諸国と協力し、アジアにおける新しい秩序を築くことが大事で、日本は自由主義や民主主義といった西洋的な価値観にとらわれず、アジアの伝統的な価値観を大切にすることが必要であると結論付けました。
この概念は、日本がアジアにおける帝国主義的な権益を確立し、アジアの自立と自主的な発展を推進するという目的を持っていました。
そのために、日本はアジア・太平洋地域において、自由主義・民主主義を否定し、自らの覇権下にある国々を統制することを目指しました。
しかし、この概念は、日本の侵略や植民地支配を正当化するためのプロパガンダであったと批判されています。
また、アジア諸国の自立を目指すという大義名分の下に、日本が他国を支配しようとする姿勢が露骨になったことも、この概念が国際的な非難を浴びる原因となりました。
大東亜共栄圏を支持した国は、主に日本と同様に西洋列強による支配に反発していたアジアの植民地や半植民地国家が中心でした。
例えば、フィリピン、インドネシア、ビルマ(現在のミャンマー)、タイ、ベトナム、マレーシア、カンボジア、ラオスなどが挙げられます。
フィリピン、インドネシア、ビルマ、タイ、ベトナム、マレーシア、カンボジア、ラオスのような国々は、西欧列強によって植民地支配されていたため、植民地解放は彼らにとって非常に重要でした。
植民地支配は、彼らの自主性を奪い、資源の搾取や強制労働など、多くの搾取的な政策につながっていました。
そのため、彼らは自己決定権と自己決定の機会を求め、自らの国を解放する必要性を感じていました。
ただし、大東亜共栄圏の考え方自体には、日本がアジア地域において、自らの利益を追求することを目的としていた部分があり、アジア地域の国々が独立することを支援するという理念には、一定の批判もありました。
しかし、西欧列強からの独立を目指すアジア地域の国々にとっては、大東亜共栄圏が、独立への一つの手段であったことは否定できません。
また、日本と同様に反植民地主義を掲げるソビエト連邦も、一時期は日本と協力して大東亜共栄圏を支援する姿勢を見せましたが、日本との対立が深まり、協力関係は解消されました。