ビスマルクとはどんな人なのか?

ビスマルクとは19世紀後半の欧州外交で活躍した人物である。
ビスマルクの正式名称は、オットー・エドゥアルト・レオポルト・フォン・ビスマルクという長ったらしい名前である。
ビスマルクは1871年にドイツ統一を達成したドイツの初代首相である。
ドイツ統一はビスマルクの行った鉄血政策と言う軍事力によるものであり、その後のドイツ帝国はヨーロッパ外交で主導権を握り、バランスオブパワーによってヨーロッパ全体の平和維持に貢献した。

ビスマルクの宰相就任時

鉄血宰相と恐れられたビスマルク

ビスマルクの性格

ビスマルクの性格は、非常に感情の起伏が激しく、闘争心が強く、涙もろい性格であった。
ビスマルクはバッハやシューベルトなどの音楽を聴くと感動し涙ぐんでしまい、 失望すると人前にであるにも関わらず大声で喚き散らした。
プロイセン国王のヴィルヘルム一世とは意見の違いから口論になった時に、興奮のあまりに嗚咽をし、陛下が私の意見を聞き入れてくれないのなら3階から飛び降りると喚き散らした。
ヴィルヘルム陛下にとっては、ビスマルクのような極めて有能な人物は重用したが、彼のめんどくさい性格に対しては心底、嫌気がさし、精神が疲弊したようであった。
しかもビスマルクは巨漢の男であり、身長は190センチを超え、かなりの大食いであった。
そして大酒飲みだった。



ビスマルクの人生

ビスマルクの生い立ち

ビスマルクは1815年の4月にプロイセン王国の田舎の中級貴族の家庭に生まれた。
ビスマルク家は5世紀もの間、ずっと続いてきた由緒ある家庭で、どちらかといえば、伝統を重んじる質実剛健なごく普通の田舎的な貴族だった。
ビスマルクの父親は、大柄で温厚な性格の正直者の男であった。
ビスマルクはそんな父親のことを好きではいたが、父親の凡庸で何に対しても消極的な性格には些か不満を持っていたようである。
ビスマルクの母であるヴィルヘルミナ・メンケンは平民階級の出身だった。
ヴィルヘルミナの父親は著名な学者でありベルリン大学の法学部の教授やプロイセン王国の内閣所管を務めている優秀な人間だった。
ヴィルヘルミナの階級は平民であったが、彼女の見識や知性はそこら辺の田舎の貴族よりもはるかに洗練されていた。
そのため、ヴィルヘルミナは田舎者のビスマルクの父親には魅力を抱かず、ビスマルクに期待するようになった。


ヴィルヘルミナは、ビスマルクを父親のような一流の教養人にしたいと思い、18世紀に一世を風靡した啓蒙思想と理性崇拝主義の教育をビスマルクに叩き込んだ。
ビスマルク少年にとっては、ドイツ式の権威主義的な厳格な教育システムは非常に息苦しく嫌であったようだ。
しかしビスマルク自身がもそもそも秀才であったために、17歳の時には英語とフランス語とラテン語の本を余裕で読むことができるようになっていた。
またドイツ語とフランス語の文章を書く能力も非常に高かった。



ビスマルクの青年期

ビスマルクは17歳でゲッティンゲン大学に入学し2年後にはベルリン大学に移籍したが、ほとんど授業には出席せず勝手に歴史書や哲学書などの本を読み漁っていたという。
時にビスマルクは冷静であり紳士的であり論理的であったが、 学生街に遊びに出たビスマルクは全くの別人であった。
酒を飲んでは些細なことで喧嘩をする、どちらかといえば札つきの不良少年であったのである。
ビスマルクは3年で5回もの決闘事件を起こしている。

ビスマルクの役人時代

ビスマルクは大学時代には遊びまわっていたが、彼の頭脳は優秀であり 1835年に二十歳の若さでプロイセン政府の司法官僚試験に合格するほどだった。
結局のところ司法官補佐職として働いていたが、わずか数ヶ月で司法官僚の仕事は自分には合わないと思い辞職してしまった。
次の翌年には行政官僚試験に合格したが、最初に配属されたアーヘン県庁での仕事を適当にやって、毎晩酒を飲んで社交場に入り浸りするようになっていた。
しかも英国教会主教の娘を追いかけ、彼女が他の都市に移住すると自分も仕事を放り出してまで彼女を追いかけてしまっていた。
そのような問題行動からビスマルクは当然役所をクビになるのである。


役所をクビになったビスマルクは次に軍隊に入隊した。
入隊した陸軍少尉としてビスマルクは1年間勤務したが結局軍隊もあっさり辞めてしまったのだ。
ビスマルクはプロイセンの宰相になった時に、軍国主義の権化であるかのような威厳あるポーズをとっていたが、実際のビスマルクは軍隊が非常に嫌いだった。



田舎に帰ったビスマルク

結局のところビスマルクは、領地である自身の田舎に帰った。
結局、都会の生活やその仕事に自分は合わないと思い古典的なユンカー領主としての農場を経営することにしたのである。
彼の領地の農場経営の仕事の手腕は非常に優れており農場は利益を増大させた。
そして経済的に余裕のある生活基盤を築いたのであった。


しかし、田舎領主の生活は、都会の知識人の中で育ったビスマルクにとっては非常に退屈であった。
話が通じる友人は見つからず、孤独であったため、狩猟をしたり本を読み漁ったりする生活を送っていたが、ついには人生の目的を見失い自暴自棄になってしまった。

ビスマルクの結婚

そんな自堕落でセンチメンタルなビスマルクを救ったのは結婚であった。
ビスマルクはインテリな母が嫌いでありその真逆の女性を探した。
結局ビスマルクはユンカー階級の貴族のヨハンナという女性と巡り合った。
ヨハンナは特に美人ではなく頭脳も明晰ではなく優秀ではなかった。
しかし、ビスマルクの不安定な精神にとってヨハンナは救いでありヨハンナビスマルクを一生献身的に支えて愛してくれた。

ビスマルクの代議士就任

ビスマルクは偶然にも、プロイセン王国の第1回連合欧州議会の正規の議員が早期辞任してしまったため補欠として選ばれた。
その時ビスマルクは初めて自分の生きがいが政治であると確信したのである。
ビスマルクは議員となって数ヶ月後には、1848年に革命が発生したのである。
2月にパリで始まった二月革命は欧州諸国の人に飛び火し3月にはベルリンも騒乱状態となってしまっている。
これを三月革命という。



三月革命に対するプロイセン王国の軟弱さ

三月革命で蜂起するベルリン市民に対し、、プロイセン王国フリードリヒヴィルヘルム4世はどのように対処していいか分から狼狽えて右往左往していた。
そのため政府軍は、意思の決定すらできず反乱軍と戦うことをあきらめてしまった。
政治家になったビスマルクにとってこの国をの不甲斐なさは非常に憤慨し領地からベルリンに馳せ参じたのである。
ビスマルクは、領地の農民に猟銃を持たせ武装して、一緒に戦うことで軟弱な国をに喝を入れるつもりであったが、 すでに戦意を失っていたプロイセン国王に失望し途中で参戦の申し入れを辞退したのである。
結局のところ、 三月革命は、自由主義や民主主義を主張する民衆勢力と伝統主義や正統主義を主張する貴族との間で何ヶ月にもわたりせめぎ合いは続いた。
しかし次第に、ウィーンやベルリンなどでも反革命主義の勢力が勝利したのである。
その中で、国粋主義の保守派の貴族が結束をし、ビスマルクも行動力がある若手の闘士として評判を得るようになったのである。
その結果ビスマルクは3年間、 あらたに招集されたプロイセン議会において少数派のキリスト教権威主義の保守派として、行動したのであった。

当時のプロイセン政府の構造

当時のプロイセン政府は、マントイフェル首相とゲルラッハ中将の二人が絶大的な権力を持っていた。
二人ともプロイセン国粋主義の信奉者であり、ゲルラッハ中将においては極めて極右的な人物であった。
1851年のフランクフルトに置かれたドイツ連邦議会に派遣するプロイセンの代表を決める必要性がある時には、外交経験が全くないビスマルクをこのポストに任命することに決めたのはゲルラッハである。
なぜならビスマルクは外国語が得意で外国の本も愛読しており、ゲルラッハ中条のお気に入りの保守派のユンカー騎士として プロイセン代表と言う重要なポストを獲得したのである。



ドイツ連邦を支配したオーストリア帝国にプロイセンが反旗を翻す流れ

ドイツ連邦議会の真実

ドイツ連邦とは1815年のウィーン会議で設置されたドイツ圏統治のための機構であるが、この会議で一番の重要事項はドイツ連邦共通の防衛網を整備し、フランスとロシアによるドイツ侵攻を防ぐことである。
その裏では、プロイセンによるドイツ連邦内の統一を防ぐという目的もあった。
ビスマルクは、プロイセンの代表の外交官としてドイツ連邦議会に派遣されるまではこの構造に気付かなかった。
ちなみに、ビスマルクだけではなくプロイセン国王もマントフェル首相もゲルラッハ中将もこの事実には気づいていなかった。
しかし、ビスマルクは、ドイツ連邦会議の議長と連日交渉を重ねるうちにこのドイツ連邦のひどい真実にたどり着いたのであった。


残念なことに、プロイセンの首脳部は神聖同盟主義でありプロイセンオーストリア基軸の外交に目を背け続けていた。
それに対し、若かりし頃のビスマルクは、普通の外交官では書かないような外交報告書をマントフェル首相やゲルラッハ中将に対して、 書きまくってベルリンに送りつけた。
その内容はオーストリア帝国はプロイセンを失速させて屈服させようとしているという内容であった。
まさに怖いもの知らずである。

クリミア戦争の勃発

ビスマルクがドイツ連邦議会に派遣されてから2年後にはクリミア戦争という歴史上重要な事件が起きた。
このクリミア戦争によってウィーン体制が完全に瓦解してしまったのである。
クリミア戦争は最初はトルコとロシアの戦争であったが、戦況がロシアの有利になると、 イギリスとフランスが介入してきて最終的にはイギリス・フランス対ロシアの戦争となった。


この事態に対して、オーストリアは漁夫の利を狙う覚悟で、オーストリア・プロイセン・ロシアの三国にわたる神聖同盟の制約をあっさりと棄却したのである。
当然ロシアは激怒し、深い反オーストリア感情を抱くことになった。
このロシアの怨恨は第1次世界対戦のきっかけになるオーストリアと ロシアの衝突まで続いたのである。


クリミア戦争勃発におけるプロイセン政府の対応は内部分裂を生んだ。
この時ビスマルクは面白いことに、 自身の野望であるドイツ連邦を破壊してドイツを統一することを考えていたため、表向きはイギリスやフランスに協力するふりをしたが、裏では中立的な工作をやっていたのであった。


このビスマルクの判断は正しく、どちらかの味方をしていたら、矢継ぎ早なドイツ帝国の統一は不可能だったに違いない。
ビスマルクは目先の戦争の利益ではなく、10年後20年後のプロイセンの国益まで考えて、外交分析をしていたのである。



プロイセンフランスの協調路線

ビスマルクは、ドイツ連邦の解体のためにオーストリアと戦う必要があると考えていた。
しかし、オーストリアとプロイセンが戦争をする時に、ロシアやイギリスやフランスの介入があればオーストリアが負けてしまう可能性がある。
そこでクリミア戦争では中立的な態度を取り、オーストリアにロシアやイギリスが味方をすることがないような環境を整えた。
そして問題のフランスに関しては、フランスと外交的な協調路線を強いたのである。
しかし、オーストリア国内ではナポレオン3世という成り上がり者と協調することには激しいアレルギーがあった。


ビスマルクにとっては、フランスという駒を利用しなければ、オーストリアに勝てないと考えていたようである。
なので、恩人であるゲルラッハ中将の反感を買うことを承知の上で、ビスマルクは1855年にナポレオン3世とパリで会談した。
外交官時代のビスマルクは将来に起きるドイツ統一のための戦争の布石を一手ずつ着実にうっていったのである。

ビスマルク、プロイセンの宰相になる

ビスマルクのことを一般のプロイセン国民はほとんど知らなかったが、 政治の世界ではビスマルクは危険な男として有名であった。
ビスマルクは何かをするかもしれないという危機感を持っていた知識人や政府の高官がほとんどでであった。
そんな嫌われ者のビスマルクが宰相に任命されたのは、ヴィルヘルム一世が当時の政治闘争で徹底的に追い詰められていたからである。


1861年と62年の選挙において、国王を支持する保守政党が惨敗し、急速な民主化や自由主義を求める左派勢力が圧倒的に優勢になって言った。
この状況下で、クリミア戦争やイタリア統一戦争によってヨーロッパの軍事事情は急速に不安定になって言ったため、プロイセンの軍の近代化をしようと国王は軍事予算を無断で確保したが、 それに対して左派議員が猛反発した。
その状況下で、軍はクーデターを起こそうと考えていたが、 ヴィルヘルム一世はクーデターには反対であった。
しかし、 次回の反発にも屈する気はなかった。
その政治的に追い詰められた状況下で、 当時の政府の最高実力者であるローン陸相は、追い詰められたヴィルヘルム一世に対して、ビスマルクを宰相として登用してはどうかと持ちかけた。


ローン陸相は、 ビスマルクをアルバイト事務官として雇ったときに、頭が切れて行動が大胆であることからビスマルクに対しては好感を抱いていた。
その後に外交官になったビスマルクが、物怖じせずに自分の外交論を主張することに対して面白がって見ていたからである。
ローン陸相にとっては、ビスマルクを抜擢するよりも、 ビスマルクが何をしでかすかの方が楽しみであったようである。



ビスマルク宰相の鉄血演説

ビスマルクは宰相に就任してから一週間後、 歴史に名を残す鉄血演説をしている。
鉄血演説とは陸軍近代化のための予算増額が不可欠であることを訴えた演説である。
演説の内容は、このようなものである。


ドイツ圏がプロイセンに対して、必要としているのは自由主義の提唱ではなくて軍事的な役割であり、自由主義はバイエルンやバーデンのような国が勝手に自由にやっていればいい。
それらの国は、重大な役割を果たすことを誰も期待していないからだ。
しかし、プロイセンには重大な役割があり、 ウィーン条約によって定められた現在のドイツ圏の国境は我々にとっては好ましいものではなく、 我々の問題を解決するには議会の演説や多数決だけではなく鉄と血による行動が重要なのです。


という演説内容であり、鉄と血による行動というのは明らかに軍事力行使のことだ。
突き詰めて言えば、 ドイツ統一のために必要なのはオーストリアとの戦争のことであるということだ。

鉄血演説に対する議会の反応

当時の議会の多数派は、ドイツ新進党と言われる自由主義の左派政党であった。
理想に満ちた演説と、多数決がすべての問題を解決してくれるだろうという考えの政党だ。
ドイツ新進党は、国際連盟という機関を作り、各国が演説し投票すれば、軍事紛争はなくなるはずだと本気で考えていた。
そのような考えのドイツ新進党にとってはビスマルク宰相の鉄血演説なる者は非常に激怒したに違いない。
ビスマルクの演説は、議会にとどまらず、知識人や新聞の間でも大きく非難された。


しかし、ビスマルクの主張するドイツ統一のためのオーストリア殿戦争が必要だという考えは、 特に新しい考えではなかった。
あくまでもドイツ統一は外交と軍事行動によって決定される問題であると言ったに過ぎないのである。



ビスマルク宰相の議会と外交について

ビスマルクは宰相となると、最初からオーストラリアとプロイセンの戦争に持ち込もうと一貫して行動していた。
議会では、多数派の左派と対立し、外交では、このままではオーストラリアとプロイセンの戦争になるぞと外国を恫喝をしていた。
国内では、陸軍近代化の予算が立たないにも関わらずである。
しかし、そこにはビスマルクの狙いがあった。


国内向けには、対オーストラリア戦争を国民に覚悟させることであり、議会の代議士たちには、ドイツ統一のためにいくら美しい演説をしても何も役に立たないということを教え込むためである。
そしてオーストリア政府に対して、プロイセンは本気でドイツ統一を考えているというメッセージを明確に伝えると言う狙いである。
それに対してプロイセンは一切の譲歩しないということである。


そのビスマルクの立ち振舞いに対して、議会の多数派は、強情に予算拒否戦術を続けていた。
結果としてビスマルクは内政と外交の両面で窮地に追い詰められていたのである。

デンマーク戦争を機に政局が変わる

デンマーク戦争はドイツとデンマークの間に存在するシュレスヴィヒとホルシュタインと言う二つの侯国がデンマークかドイツかのどちらに帰属するかで揉めている問題である。
この問題に対して1863年にデンマーク王がシュレスヴィヒを一方的に自国に併合をするように決めたため、ドイツとの間で軍事衝突が起こったのである。
ビスマルクは意外にも慎重な男であり、デンマークとの衝突において、プロイセン軍が単体でデンマークを攻撃することを避けた。


当時のヨーロッパの情勢には、 イギリスとフランスとオーストリアが秘密の軍事同盟を作りプロイセンの領土拡大を阻止しようとしたという状況がある。
そこで、ビスマルクは短期的にプロイセンとオーストリアの軍事同盟を作ってデンマーク戦を戦うように仕組んだのである。
今までビスマルクは、反オーストリア的な態度をとっていたところが、いきなりオーストリアと軍事同盟を組むという君子豹変ぶりの外交であった。
ここには、イギリスとフランスとロシアがプロイセン対デンマークの戦いに干渉してくることを避ける狙いがあった。


ビスマルクはは表面的には攻撃的に振る舞うが、非常に狡猾な男であった。
オーストリア政府はプロイセンと組んでデンマークを叩けば自国の利益になると軽率に考えていたのである。
しかし、デンマーク戦争の勝利権利の処理に関する対立でオーストリア政府はプロイセンとの戦争に追い込まれることとなり、 このプロイセンとの同盟を深く後悔したのだった。


さらに、ビスマルクは、デンマーク戦争について、イギリスとフランスとロシアが1852年に決めたロンドン条約を守るために戦っていると主張した。
デンマークはロンドン条約に違反し国際秩序を撹乱しようとしていると主張しデンマーク戦争を合法化したのである。
これによってイギリスとフランスとロシアの政府がデンマークに味方すると言う、国際法上の根拠を失わせたのである。



戦争は外交の手段に過ぎない

ビスマルクの狡猾な外交戦術とは裏腹に、プロイセン軍の総司令官だったヴランケル元帥とモルトケ参謀総長は、デンマーク領を占領することを望んでいた。
ブランゲル元帥は、プロイセン政府の意向に無視し戦線を拡大したことに対して、総司令職から解任し処罰した。
ビスマルクは、戦争に勝って領土を拡大することが必ずしも良い結果にはならないと考える外交優先論者であった。
結果的にプロイセンはデンマーク戦争に勝利し、国内で人気を高めた。
一部の穏健な自由主義左派の中にもビスマルクを支持する人も出てきた。
しかし議会の過半数は相変わらず、陸軍近代化の予算拒否を続けていたのである。

ビスマルクの非情な対オーストリア政策

プロイセンとオーストリアの軍事同盟によって、デンマーク戦争に勝利したオーストリア政府は、すっかりプロイセン政府が親オーストリア政府になったと錯覚していた。
そこでオーストリア政府は自国の問題である、 イタリア紛争や関税問題に対してプロイセン政府に協力要請をしてきた。
しかしビスマルクは、その要請を拒否し、デンマーク戦争の後にプロイセンとオーストリアに帰属することになった二つの公国の戦後処理問題に対して、プロイセンは非協力的な態度だった。
その結果オーストリア政府はますます、反プロイセン感情が高まり、ビスマルクの外交戦略にまんまとハメられてしまうのである。

ナショナリズムさえも利用する
ビスマルクはさらに、オーストリア国内の状況が多言語多民族国家であることを利用し、オーストリアに対して選挙による民主政治を行うように外交圧力をかけた。
しかしオーストリアとしては、多民族多言語の国家では、民主制が成立しないことなど火を見るよりも明らかであったため、ビスマルクの提案に強く反発したのである。
それによって、民主主義とナショナリズムを支援するプロイセンと反ナショナリズム反民主主義国家オーストリアという単純な構図を外交宣伝で繰り返し行なった。

ビスマルクのロシアやイタリアに対する根回し
ビスマルクは、戦争においては用意周到な男であり、対オーストリア戦争においてフランス・ロシア・イタリアの三国の政府が干渉しないように手を打っていた。
ロシア政府は、クリミア戦争以降、 オーストリアに対する反墺感情が高まっていた。
しかもビスマルクは、密かに外交官時代にロシア皇帝やロシアの高官と親密な関係を築いていた。
イタリアに対しては、オーストリア戦争の時に、 領有権を巡って対立していたヴェネトを占領すればいいとけしかけていた。



ナポレオン3世と取引をする
ビスマルクにとっては、厄介なのがフランスであった。
ナポレオン3世はビスマルクの大使時代の知性や鋭い分析力などを評価していたが、自らが稀代の作詞であり外交の中心人物であると自惚れていたのである。
そこで最終的にはビスマルクを出し抜いて優位の立場に立とうと考えていたのである。


そのため、ナポレオン3世はプロイセンとオーストリアが戦争をすることを望んでいた。
プロイセンとオーストリアのどちらかが勝っても最終的にはフランスが得をするという結果になる画策していたのである。


ナポレオン3世は、フランスの友好的中率を高く売りつけて、どちらが勝っても外交交渉でフランスの領土拡大を認めさせる魂胆であった。
ビスマルクはナポレオン3世と南フランスの保養地であるビアリッツで密談をし取引をした。
プロイセンとオーストリアが戦争になると、フランスがどちらかの国2肩入れすると困るので、肩入れしない代わりに、一部の領土の領有権を認めるようにビスマルクに迫っていたのである。
実はナポレオン3世はビスマルク以外にもオーストリア政府とも同じような密談をしており、どちらが戦争に勝ってもフランスの領土は拡大するようになっていた。

プロイセン対オーストリア戦争に突入

ナポレオン3世との密談後も、プロイセンとオーストリアの関係は確実に悪化し、両国とも1866年には開戦を決意していた。
フランスも、ドイツの諸侯国もこの戦争はオーストリアが勝つだろうと予測していた。


しかし、いざ、開戦となると、たったの2週間半で切りがついてしまいプロイセンが戦争に勝ってしまったのである。
蓋を開けてみると、軍事戦略においても軍事技術においても兵士の士気関連においてもプロイセンの方が優位であった。


国王や軍の幹部はオーストリアに対して巨額の賠償金と領土の割譲をいきり立っていた。
熱狂したプロイセンの国王と軍の幹部とは裏腹に、ビスマルクは冷静で、 ウィーン占領とオーストリアのこれ以上の弱体化は避けるべきであると主張したのである。

国際政治と割り切っていたビスマルク
なぜビスマルクが、オーストリアとの戦争に勝利したにも関わらず、領土の割譲や巨額の賠償金を請求することに否定的だったかといえば、それは明らかにビスマルクは国際政治をやっていると割り切っていたからである。


この態度に国王や軍部は猛反発し、ビスマルクはヒステリックになり激昂したり3階から飛び降りるなどの態度を見せることによって、なんとか国王を説得することに成功した。
しかし、 軍部とビスマルクの間には深い溝ができたのである。


ビスマルクはオーストラリアに対して過大な請求をするべきではないと考えていた。
なぜなら、フランスとロシアとイギリスはプロイセン勝利に嫉妬し、オーストリアとの戦争に勝って調子に乗っているとやがてはフランスとロシアとイギリスの3大帝国に復讐されると心配していたからである。



北ドイツの統一とナポレオン3世の焦り

プロイセンはオーストリアを戦争で下し北ドイツを統一した。
この短期的な動きに対してナポレオンは、さぞかし焦ったようである。
ナポレオンは友好的中立の代表として領土割譲してもらう予定であったが、その目論見は外れてしまった。
焦ったナポレオンは、プロイセンに対して、ラインラントの一部と南ドイツのバイエルン王国、ヘッセン大公国の一部をフランス領にすることを承認しろと迫った。


フランスは全く戦争には参加していなかったにも関わらず、プロイセン対オーストリア戦争の戦果だけは一人前に要求してくるナポレオンの態度に対してビスマルクは呆れ果てていた。

南北のドイツ統一の必要性

元々ビスマルクは、北ドイツ統一を目指していた。
しかし、ナポレオンは南ドイツに対して軍事的な野心をあらわにすると、北ドイツの統一だけでは地域の安定は確立しないと考え、南北両方のドイツを統一するよう考えるようになった。
それ以上に、対オーストリア戦争を大義名分かするために利用したナショナリズムが強くなり、南北のドイツの統一はしなければならなくなってしまっていた。
ビスマルクは敗北したオーストリアと寛大な講和条約を結んだため、プロイセン国内では国民の人気が急上昇し、数年前までは野暮な鉄血宰相というビスマルクの名前は国民的な英雄へと変化してしまった。
1866年の総選挙では、初めて政府を支持する穏健な保守派が議会の多数派となり、これまで続いてきた憲法違反の無予算統治という異常な国家財政はやっと解消された。

南北ドイツの統一という偉業のための布石

対フランス戦線の考え

ビスマルクは北ドイツ連邦と言われる大事業を成し遂げたが、すでに次の戦争のために手を打っていた。


プロイセンの成功に嫉妬したナポレオンは南北ドイツの統一を阻止したいという態度を見せ始めていたからである。
元々、ビスマルクはフランスとプロイセンで同盟を組み、オーストリアと対抗すると言う親フランス派であったのだが、ドイツ統一のためにフランスと戦争をする必要があるという考えになっていた。
またビスマルクだけではなく、重要閣僚だったローン陸送やモルトケ参謀総長も、ドイツ統一ためにフランスと戦争することは、やむなしと考えるようになっていた。



ビスマルク、フランスを罠にはめる

ビスマルクはフランスとの戦争のために、スペイン王位継承問題を利用した。
1868年にスペインでクーデターが発生し、悪評だった女王が追放されると、政権を握った軍部は次の国王にふさわしい人物を探し始めた。
郡部は、プロイセンのホーエンツォレルン王家親戚のレオポルト王子を次期スペイン国王にしようと考えていた。
ホーエンツォレルン家の二人の国王をドイツとスペインに君臨させることによって、成り上がり皇帝であるナポレオンを権威で封じ込めようとした。
こうなるとフランス人は激怒するだろうとビスマルク思った。


1870年にホーエンツォレルン家によるスペイン王位継承のニュースを知らされたフランス国民は、ビスマルクの計略通り激怒し、 フランス外相のグラモンは、ドイツを批判する好戦的でヒステリカルなスピーチを行った。
元々王位継承には乗り気ではなかったレオポルト王子は、スペイン王位継承を断ると言い出した。
その結果、王位継承問題は沈静化されてしまった。


この状況に、 ビスマルクとモルトケ参謀総長は絶望してしまった。
なぜなら、フランスを叩きのめすために、戦争の準備をしていたからである。
これで、 北ドイツ対フランスの戦争は回避されたかに思ったが事態は急変した。

事態は急変し戦争になる

戦争は回避されたかのように思えたが、とある事件が起こった。
フランスのグラモン外相は、ホーエンツォレルン王家は未来永劫スペイン王国の方にならないことをフランス政府に誓約するという証書を取って来いと命令したのである。
この行為は極めて無礼で非常識な行為であったため、フランス政府によるプロイセン王国侮辱事件として新聞にリークしたのである。
このリークによってフランスとドイツの両国の世論は爆発した。


南ドイツの諸国もフランス政府の無礼な要求に唖然とし、フランスとドイツのマスコミはお互いに激烈な非難合戦を繰り返し、フランスとドイツは非常に不安定な状況になっていた。
この状況にナポレオン3世は宣戦布告せざるを得ない状況になり、 フランスとドイツは開戦することになった。



ビスマルクの誤算

1087年に開戦した、フランスとプロイセンの戦争は、ナポレオンを戦場で捕虜とし早期決着をする予定であった。
しかし、フランス側は、プロイセンとの講和を拒否し第三共和政なるものを設立しパリに籠城し徹底抗戦を続けていた。


その理由は、講和の条件としてフランスからアルザス・ロレーヌと言うドイツ文明圏の領地を割譲することをフランスが断固拒否したからである。
ドイツ圏からしたら、アルザス・ロレーヌはドイツ文化圏であり、ドイツ系の民族とドイツ系の言語が支流である地域ため、疑いもなくもともとドイツの領土であったという認識にあった。
にも関わらず、フランスが断固拒否したため、ドイツ国民の領土獲得欲求は逆に高まり、 この要求をビスマルクは無視できなくなっていた。
その結果プロイセン軍は、パリに立てこもるフランス臨時政府軍と4か月に及ぶ包囲戦を戦い続けた。
この包囲戦では多数の戦死者や餓死者や病死者が生じたため、フランス国民によるドイツ民族への復讐心は次第に強くなり、この復讐心は第1次世界対戦まで続いたのである。


元々、ビスマルクからしてみれば、政治家の責任は二度と戦争を起きないように戦後処理をすることだと考えていた。
しかし、圧倒的な領土割譲を求めるドイツ国民の要求に同意してしまったため、戦争は長引きフランス人に強い復讐心を抱かれてしまったことに対して強く後悔してしまっていた。
この施策をビスマルクは一生悔いていたという。

ドイツ帝国の誕生

ビスマルクは包囲戦の最中に、南北統一のための交渉を行い、南ドイツの諸侯国を加入させるために、巨額の賄賂や巧みな説得を行なった。
しかし、ドイツ帝国の誕生のために一番苦労したのは、ヴィルヘルム一世の説得である。
ヴィルヘルム一世は、ドイツ帝国の国王として、ドイツ領に君臨する皇帝という称号を使うべきだと主張したが、ビスマルクはヴィルヘルム一世の称号があまりにも偉そうであるため、ただの皇帝とするように説得した。
ドイツに君臨する肯定という偉そうな称号では、ドイツの諸国の国王をたちのプライドを傷つけるため、ただの皇帝にして欲しいと頼んだ。
ビスマルクはヴィルヘルム一世に対しては忠誠を誓っていたが、それと同時に些細なことにこだわる国王に呆れていた。



ドイツ帝国誕生によるヨーロッパ外交の構造の変化

ドイツ帝国の誕生は思いもよらぬ事態をもたらした。
17世紀の中頃からうまく機能していたバランスオブパワーによるヨーロッパ統治の秩序がドイツが強くなりすぎていたため、機能しなくなっていたからである。
ビスマルクにとってドイツ統一は偉大な事業であったが、それと同時に強すぎたドイツをコントロールしながら危険に満ちたヨーロッパ外交を巧みにやっていくだけの能力を持っているのは、ビスマルクだけであった。
ビスマルクの偉業は後のドイツの20世紀の一駅隣ヨーロッパ全体の政治の悲劇となっていくのだった。

ビスマルクの評価

ドイツ建国の父といわれるビスマルクの評価は、奇々怪々な人間であったに違いない。


特にドイツが嫌いな傾向の欧米の左派にとっては、ビスマルクといえば「ドイツ独特の排他的権威主義国家を作った悪いやつ」という評価であり、ヒトラーのような独裁主義の男を誕生させた国家の風土を作った男であったような悪いイメージである。
逆に、国際政治学者や保守派の人間にとってはビスマルクの評価は高く、ビスマルクのことをリアリズムの常識人だと評価している。


現実のビスマルクは、軍事力を行使するかしないかを明確に判断する能力が長けていた。
また、ビスマルクのイメージと裏腹に、彼は非常に教養の高いインテリの知識人であった。
意外にもビスマルクはシェイクスピアやバイロンお好み、シェイクスピアの演劇のセリフ、バイロンの詩を巧みに引用し周囲の人間と楽しく談笑していたという。

ビスマルクの政治手腕

ドイツ連邦の解体とドイツ帝国統

元々は19世紀前半のドイツ連邦という、いくつかの諸国は同じゲルマン系の民族の国々であったが、常にバラバラで、くだらないことで内輪もめばかりしていた共同体であった。
しかし、ドイツ連邦があることで、それぞれの小国が大国であるロシアとフランスの軍事的な侵攻を抑えられていたことも事実であった。
そのために絶妙な軍事的バランスで平和はかろうじて維持されていたのが事実である。
そんなドイツ民族を初めて統一したのがビスマルクである。


ビスマルクは、ドイツ連邦自体がドイツ県の統一を阻止する役割があることを発見し、 一度ドイツ連邦を解体しプロイセンの影響かにドイツを統一することを考え出したのである。



ビスマルクが作ったドイツ帝国

ドイツ連邦が統一してできたドイツ帝国は明らかに軍事力科学力など、強大な力を持ち欧米各国の脅威となっていた。
ドイツ連邦は、国際政治の被害者から一夜にして、他国を恫喝して屈服させることができる最強国家へと変貌したのである。
統一されたドイツ帝国は、そのうちに厄介な国際問題を引き起こすやばい国であるという認識がビスマルクの中にはあった。
皮肉なことに、ドイツ帝国と言われる強国を作ったビスマルク自身が、ドイツ帝国は軍事面や外交面で大失敗をすると言う予感をしていたのである。
そのためビスマルクは今までのような強気の武断主義外交を一旦止めていきなり慎重な非戦主義外交に転身せざるを得なかったのである。
ここがビスマルクの現実主義者としてのすごいところである。



    

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