日本空爆の主力兵器B29スーパーフォートレス(超空の要塞)の性能

現代になって、B29戦略爆撃機の評価を客観的にする必要があると思う。

太平洋戦争終盤を象徴する爆撃機b29の性能評価

太平洋戦争を語るうえで避けることが出来ないのがB29爆撃機である。
B29は、第二次世界大戦中にアメリカが開発した最大の爆撃機であり、その設計と開発には多大な努力が注がれました。

スーパーフォートレス(超空の要塞)とも言われたこの機体。

米軍は戦略爆撃機としてB17、B24両爆撃機を配備していたがB17は被弾に強いものの航続距離と爆弾搭載量が劣り、B24はB17を上回る航続距離と爆弾搭載量があったものの被弾に脆く損害が多かった。
B17爆撃機
B17爆撃機

そこに爆弾搭載量、航続距離、防御力で両者を上回る性能を持って登場したのがB29爆撃機である。

B29の特徴や仕様

B29は、当時の最新技術を駆使して設計・開発された航空機であり、その巨大な胴体や、最大の特徴である4基のプロペラエンジン、高高度での飛行に必要な圧力抑制システム、爆撃装置など、航空機の性能を決定する重要な要素があります。

胴体
B29は、長さ99フィート(約30メートル)、高さ27フィート(約8メートル)の巨大な胴体を持っていました。
この大きな胴体は、多くの兵器、燃料、爆弾などを運ぶことができ、航空機の大きな特徴となりました。

プロペラエンジン
B29には、4基のプロペラエンジンが装備されていました。それぞれのエンジンは2,200馬力を発揮し、合計で8,800馬力に達しました。
これにより、B29は最大速度約575マイル(約925キロメートル)/時間を達成することができました。

高高度飛行
B29は高高度での飛行が可能であり、航空機が到達できる最高高度は約31,850フィート(約9,710メートル)でした。
これは、高高度での爆撃が可能となり、敵防空網を回避できるようになりました。

圧力抑制システム
高高度での飛行では、機内の空気圧が低下するため、機内の圧力を保つために圧力抑制システムが必要となります。
B29には、圧力抑制システムが装備されており、高度20,000フィート(約6,100メートル)以上での飛行時には、機内の圧力を海面高度に相当する圧力に維持することができました。

爆撃装置
B29には、高度制御爆撃装置が搭載されていました。これにより、B29は高度30,000フィート(約9,100メートル)からの精密爆撃が可能となり、敵の軍事施設や工場などを狙った爆撃が行えました。

開発の経緯

B29の開発は、1940年代初頭に始まりました。

当初、B29はアメリカ合衆国の国内だけでなく、日本やドイツのような遠距離攻撃に対処するために設計されました。
B29は、多くの技術的な問題に直面しましたが、最終的にはアメリカ合衆国の主要な戦略爆撃機として第二次世界大戦中に広く使用されました。






未来から来たかのような爆撃機

B29は、アメリカ陸軍航空軍が第二次世界大戦中に開発した戦略爆撃機であり、当時としては最新の技術を駆使して設計されました。
B29は全長30m、全幅43m、翼面積は161.3平方メートルで、空虚重量は34,000kg、最大離陸重量は61,000kgでした。また、最高速度は約574km/h、巡航速度は約480km/hでした。

B29のエンジンは、4基のライト R-3350 ターボコンパウンドエンジンを搭載していました。このエンジンは、当時最新の技術を駆使した高出力エンジンで、1基あたり最大2,200馬力の出力を発揮しました。

B29は高度10000m以上で飛行することが可能で爆弾搭載量は最大約9000kg、最大航続距離8321kmでした。

防御システムは、機首、胴体、尾部に12.7mmの重機関銃を装備し、機体外周には20mmのキャノン砲を備えていました。また、B29は、日本軍のような対空砲火に対抗するために、アルミニウム合金製の特殊な防弾装甲を採用していました。

防御用の銃座はリモコン式、機体内は与圧出来るため、乗員の身体的負担は他の爆撃機よりも軽減される。

日本のゼロ戦の最大速度を超える速度を有し、他の日本軍戦闘機でも高度10000mまで上昇出来ても空気の薄さから機体のコントロールが難しくパイロットの技量でカバーするという絶望的な戦いを強いられた。

航法システムは、当時最新の航法システムを搭載していました。このシステムには、ラジオコンパス、レーダー、自動操縦装置、高度計などが含まれており、B29が高度な精度で飛行できるようになっていました。

まさに超空の要塞の異名がふさわしい機体だった。

B29の戦略的な意義

B29の導入により、日本の戦争指導部は、本土への攻撃に対する危機感を強め、戦争終結へとつながっていったとされています。


B29は、第二次世界大戦中にアメリカが開発した最も高性能な爆撃機の一つであり、日本本土への戦略爆撃に大きな影響を与えました。
B29の導入により、日本の戦争指導部は、アメリカによる本土爆撃の脅威に直面することになりました。B29は、高高度からの爆撃が可能で、日本本土に対する精密爆撃を行うことができました。
これにより、日本の戦争指導部は、本土を守るための兵力を本土に集中させる必要があり、他の戦線からの兵力を引き抜くことになりました。

B29の出現によって、日本の戦争指導部は、敗戦の危機感を強めました。
B29は、日本本土に対する精密爆撃を行うことができ、戦争の継続に対して強力な脅威となりました。
また、B29は、日本の兵器生産拠点や都市を破壊することができ、日本の戦争生産力を大幅に減少させることができました。

さらに、B29は、日本本土に対する精密爆撃の実現によって、戦争に終止符を打つことにつながりました。
B29の出現によって、アメリカは、日本本土に対する圧倒的な戦力を持ち、日本の降伏を迫ることができました。
そして、B29による本土爆撃は、日本の民間人に対する被害も大きく、日本国民の戦争疲れや戦争への反感を高め、戦争終結の流れを加速させることになりました。

以上のように、B29は、日本の戦争指導部に対して強力な脅威となり、戦争の終結に大きく寄与したと言えます。

特殊任務にも使用されたB29

B29は特殊任務にも使用されました。

第二次世界大戦中、オーストラリアとニュージーランドの間には「戦時協定」が結ばれており、ニュージーランドの軍事支援にあたるためにB29が使用されました。
B29は、ニュージーランドから離れた島々に物資を輸送したり、島々に滞在している軍隊の交代や補給を行う任務に従事しました。
また、特殊部隊を搭乗させて敵地に潜入する任務にも使用されました。
1945年3月には、「火星作戦」として知られる特殊部隊の搭乗任務が行われました。
この作戦では、B29に乗っていた特殊部隊がパラシュートで敵地に降下し、敵兵を撹乱するとともに、戦略的な情報を収集することを目的としていました。

また、B29は韓国戦争でも使用されました。

1950年6月、北朝鮮が韓国に侵攻した際、B29は戦略爆撃を行い、北朝鮮の後方支援基地や軍事施設を攻撃しました。

これにより、北朝鮮軍の補給線が遮断され、韓国軍の反撃が可能になったとされています。



B29の意外な弱点と、それを補うアメリカの物量

B29は完全無欠の爆撃機と思われるが意外な弱点があった。

それはエンジンの信頼性の低さである。
B29に搭載されていたエンジンは出力が高く先進的で意欲的なものだったが、その構造と使用された素材が仇となり火災が多かった。

B29試作1号機もエンジンの不具合により墜落しているが、「壊れやすいなら交換のエンジンを沢山作ればいい」というアメリカらしい物量作戦によって、問題の根本は解決しなかったものの作戦行動に支障が出ないようにしていた。

これは当時、アメリカ以外の国には出来なかったであろう。

そして、アメリカだからこそ作れてアメリカだからこそ運用できた爆撃機だ。





原爆搭載と冷戦の小さなきっかけ

B29は、第二次世界大戦中の重要な役割を果たしただけでなく、いくつかの有名なエピソードや逸話も残しています。

一つの有名なエピソードは、広島と長崎への原爆投下です。1945年8月6日と9日に、B29爆撃機「エノラ・ゲイ」および「ボックスカー」が、それぞれ広島市と長崎市に原子爆弾を投下しました。
この攻撃により、多数の犠牲者が出ましたが、同時に戦争を終結に導くことにもつながりました。


当時の原爆は技術的な問題から大きく重量があった。

B29以外に搭載できる航空機は存在せず、終戦後の東西冷戦においてアメリカの大きなアドバンテージとなるはずだったが、ソ連は自国内に不時着したB29を徹底的に調べ上げ、1947年にTu4という見た目にはB29と全く変わらない戦略爆撃機を完成させた。

この爆撃機によってソ連もアメリカ本土へ原爆を投下できる爆撃機を手に入れソ連崩壊まで続く東西冷戦の序盤の重要な機体となった。

B29は実戦でどのように使用され、どのような結果を生んだのか?

B29の実戦投入は、戦争の結果に大きな影響を与えました。
B29による日本本土への爆撃は、多くの市民が死亡し、都市のインフラストラクチャーが破壊されたことで、日本が降伏する原因となりました。
また、B29による原爆投下は、戦争を終結させる重要な役割を果たしました。

1945年8月6日に広島市に投下された原子爆弾「リトルボーイ」により、広島市は壊滅的な被害を受け、多数の死傷者が出ました。そして、3日後の8月9日には長崎市にも原子爆弾「ファットマン」が投下され、こちらも多大な被害をもたらしました。

これらの原爆投下により、日本国民は戦争の現実を直接的かつ深刻な形で目の当たりにし、これ以上の戦争継続を望まなくなりました。
また、連合国側も、日本が降伏しない限り戦争を継続することになり、多大な犠牲を強いられることになると考え、降伏を促すために原爆投下を行ったとされています。

8月15日、日本は玉音放送により降伏を発表し、第二次世界大戦は終結しました。
原爆投下により多大な被害が出たことは否定できませんが、戦争を終わらせることに成功したとされ、歴史的な出来事として広く認知されています。

日本への爆撃
B29は、第二次世界大戦中に日本本土への爆撃に多く使用されました。
1944年から1945年にかけて、アメリカ陸軍航空軍はB29を使用して、東京や名古屋、大阪などの主要都市を空襲し多くの関係のない市民が死亡しました。

マリアナ諸島からの攻撃
B29は、マリアナ諸島のグアム、サイパンからの攻撃にも使用されました。
これらの島々は、アメリカが太平洋戦争において主要な基地として使用しました。
B29は、日本本土やその他の太平洋地域の目標に対して、より長距離かつ効果的な攻撃を実行できるようになりました。

B29が第二次世界大戦後のアメリカの軍事技術の発展に与えた大きな影響について

B29は、第二次世界大戦後のアメリカの軍事技術の発展に大きな影響を与えました。

次世代の戦略爆撃機の開発
B29は、当時最も高性能な戦略爆撃機であり、その先進的な技術は、次世代の戦略爆撃機の開発に影響を与えました。
B29は、高高度飛行や長距離飛行に適した機体設計を持っており、ジェットエンジンやミサイル技術などの新しい技術の開発にも寄与しました。

ロケット技術の発展
B29は、大型のボンバーとして、ロケットエンジンの開発にも寄与しました。
B29には、通常のエンジンに加えて、離陸時に追加の推力を提供するロケットエンジンが搭載されていました。
この技術は、後にアメリカの宇宙開発にも応用されました。

情報収集技術の開発
B29は、敵地上空を高高度から飛行することができ、戦略目標の情報収集に重要な役割を果たしました。
この経験から、アメリカは、高高度からの偵察に必要な電子技術や暗号解読技術などの開発に取り組み、これらの技術は後に情報収集衛星やドローンなどにも応用されました。

B29の遺産

B29の遺産は、多くの博物館や修復プロジェクトを通じて保存されています。

例えば、アメリカ合衆国のワシントン州シアトルにあるムゼアム・オブ・フライトは、B29の展示があります。同博物館は、世界最大級の航空博物館の一つであり、B29をはじめとする多くの歴史的な航空機が展示されています。

また、アメリカのカンザス州ウィチタにある「B-29 Doc」は、B29の修復と保存を目的とした非営利組織です。
同組織は、数十年にわたる修復作業を経て、B29の飛行を再開しました。現在、同機はアメリカ国内でのエアショーに参加し、多くの人々にB29の歴史や価値を伝えています。

さらに、日本においても、長崎県にある平和公園内の長崎原爆資料館にて、B29の展示があります。同機は、原爆投下の際に使用されたものであり、長崎市民とともに平和の象徴として保存されています。

以上のように、B29の遺産は、多くの博物館や修復プロジェクトを通じて保存されています。
これらの取り組みによって、B29の歴史や価値を後世に伝えることができています。



    

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