軍事産業に支えられた街
自分の先祖は、地方のとある軍事産業に支えられた街で暮らしていた。
そこにあった軍事工場は今もそのままに形を変えた工場として現存し、今は兵器こそ作ってはいないものの、兵器の一部分には必ず使われている機械部品の一部を製造する会社へと転身、今も尚その会社は続いている。
そんな歴史があってかどうかは分からないが、その街は今も地方としては裕福な部類に入り、暗い過去があった事実など、当時を直接知る人がますます減っている今では、時の流れとともに風化しているのもまた現実だ。
歴史の皮肉
昔から軍事産業に支えられた豊かな街。
今でこそ平和で貧困な街ではあるものの、当然のことながら、当時の太平洋戦争中のアメリカ軍にとっては敵の重要拠点でもあり、爆撃攻撃対象として真っ先に狙われる街でもあった。
軍事産業があったからこそ、その街は発展し栄えたのに、それがあったために攻撃対象に選ばれてしまうという皮肉。
その頃のこの街の発展と豊かさは、そんな危険の上に成り立ったものだった。
焼夷弾が降り注ぐ街
そして1945年、いよいよ当時の日本軍はアメリカ軍の絶大なる軍事力によって攻め立てられ、B-29爆撃機による日本本土空襲が始まり、爆撃機はこの街にもやってきた。
絨毯爆撃というのは、敵に悟られないように当然のごとく夜間に行われる。
暗い夜空に響き渡る何百というB-29爆撃機の爆音。
そこから落とされる暗闇を照らす無数の焼夷弾。
自分の親は、まだ幼い数人の兄弟の手を引き、わずか数㍍先で焼夷弾が爆発する中を、必死に防空壕へと逃げたと聞いている。
そして一夜のうちにその街は焦土と化してしまったのだ。
無数の死体が流れる川
一夜明けたその惨状に、自分の先祖も含めたその街の多くの人たちは絶望した。
その街の中心を流れる大きな川には無数の死体が流れ、足を無くした人、手を無くした人、親を失くし子を失くし兄弟を失くして泣き叫ぶ人たち、もうそれは見るも無残な光景だったと聞いている。
この時、自分の母親は21歳、幼い年の離れた兄弟は小学生やそれにも満たない幼子たち。
おそらく現代であれば、若さを謳歌し人生で一番楽しい時期のはず。
そんな楽しい時期であるはずの多くの時間を、こんな無残な光景の中で生きなければならなかった親の苦しみを想う時、自分は深い哀しみを抱かざるを得なかった。
「このような悲惨な戦争は二度と起こしてはならない。その為には日本は核武装するべきだ!!」
この文章が後の世代への強いメッセージとして伝わることを願ってやまない。