戦国時代随一の美女 お市の方は生き延びた?

お市の方とは

お市の方

お市の方は、あの織田信長の妹とも、従兄弟の娘とも言われ、浅井長政には信長の「娘」として嫁いでいます。
同母妹とも言われますが、信長より13歳も年下であることを考えると、異母妹ではないかと思われます。

初めの結婚は、兄信長と浅い長政との同盟の為のものでした。
長政はお市より2歳年上でしたが、当時お市は20歳。初めての結婚としては晩婚です。
その為、お市は離婚歴があるのでは?という説もあります。

長政との間には、茶々、初、江の3人の娘に恵まれ、幸せに暮らしていたようです。
しかし、兄信長が、浅井家と同盟関係を結んでいた朝倉家を攻め、お市と結婚した時の「朝倉家を攻めない」という約束を破った為、長政は朝倉家に味方します。

その時、お市は長政を裏切るように、信長に小豆を袋に入れ、袋の両端を縛った物を陣中見舞いとして送ります。
「袋のねずみ」と、この送り物の意味を即座に悟った信長は、窮地を脱します。

朝倉家を滅ばした後、信長に攻められた長政でしたが、長政は城からお市と3人の娘を逃がし、自害します。

その後9年間は信長の庇護を受け、信長の弟の世話になっていたお市でしたが、1582年本能寺の変が起こり、信長を失います。
お市は織田家筆頭家老である柴田勝家に嫁ぎ、9ヶ月後勝家と豊臣秀吉の合戦で勝家が負けた為、勝家と共に自害して果てます。
享年37歳。
見た目は20代の若さ、美しさだったと言います。



お市の方生存説

お市の方は、勝家の北ノ庄城から落ち延び、方々をさすらった挙句、最後は1599年に53歳で三重県伊賀市下友田で亡くなったと説があります。

浅井家の元家臣であった浅井治郎左衛門(後に稲増と改名)が、侍女をお市の身代わりとして城に残し、お市を逃がしたのです。
治郎左衛門が伊賀市の出身であることから、彼は浅井家に使える忍者だったのではないかという説が有力です。

お市は方々を彷徨うような生活の後、伊賀市下友田に落ち着き、そこで亡くなったのです。
遺体は、治郎左衛門に依って荼毘に付され、その中からお市の方の「喉仏」を保存し、それは稲増家の屋敷に保管されていると言います(非公開)。

そして、伊賀市の浄光寺の稲増家の墓所には、主君であった浅井長政の墓碑も建てられています。

まとめ

実際に伊賀市下友田に行くと、浅井長政の墓碑等は見かけても、お市の方の墓碑等は見られません。

喉仏も非公開なので、DNA等を調べることもされていません。

柴田勝家、お市の方共に、火薬を爆発させて亡くなったという最期の話も伝わっているので、両人とも遺体は見つかっていません。

勝家とお市の菩提寺は福井県福井市の西光寺です。
信長は、お市の方を「男だったら、さぞかし立派な武士にとったであろう」と言ったそうです。
兄に似て、また戦国を生きた女性として、お市の方は、やはり北ノ庄城で勝家と共に、秀吉に3人の娘を託した後、自刃したと考えたい気がしませんか。




    

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