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通潤橋を作った人

矢部惣庄屋布田保之助は、江戸時代中期の儒学者・文人・実業家で、日本の木造アーチ橋の先駆者として知られています。
通潤橋をはじめとする多くの橋や建築物を手がけ、特に通潤橋はその技術力と美しさから高い評価を得ています。
また、布田保之助は、江戸時代においては珍しい商業的な目線を持ち、事業を通じて地域の発展に尽力したことでも知られています。



世のため人のため俺がやらねば誰がやるんだ

熊本県、矢部町に大きな水道橋がある。
その橋の名前は「通潤橋」。
大きな橋で、時間帯によって、その橋から大量の水が放射されるのだ。
その端は、江戸時代に布田保之助が中心となって、この橋を作った。


当時の熊本県のこの村は、水が通らず稲作が思うように育たなかった。
村の人たちが栄養失調になり苦しむ中で、村の人々を救うために、保之助は村に水道橋を作ろうと提案をするのだ。


しかし、周りの反応は「無理に決まっている。諦めろ。」と言うマイナスな言葉ばかりだった。
そこで保之助は、たった一人で水道橋を作るために動くのだ。


何度も試行錯誤をし、失敗をしては、また挑戦と、懸命に村の人の命を救うために働く保之助の姿をみて、村の人たちは次第に力を貸すようになったのだ。
そこから、月日は経ち、幾度もの失敗を繰り返すのだが、やっと完成し作り上げられた通潤橋は、村の稲作を育て、村の人は救われた事から、今となっては国の重要文化財となった。
保之助は、失敗を繰り返すために「俺がやらねば誰がやる」その精神を持ち、村の人を救うために戦ったのだ。


多くの人に諦めたほうがいい。
無理に決まっていると言われても、絶対やると歯を食いしばり頑張る保之助の作った通潤橋にはパワーがあり、歩けば力を貰えると思う。


私は行き詰まった時、落ち込んだ時、この橋を歩くとパワーがもらえるのだ。



通潤橋の作り方

通潤橋は、木造アーチ橋として知られており、その建築技術は江戸時代に開発されたものです。
以下は通潤橋の作り方の概要です。

設計と準備

通潤橋を建設する前に、矢部惣庄屋布田保之助は地形や水流などを調査し、建設に必要な材料や資源を調達しました。
当時は橋を作る際に必要な資材が限られており、木材は主に地元の山林から切り出されました。
布田保之助は、建設に必要な木材を調達するために山林を管理し、伐採や植林を行い、長期的な資源確保を図りました。

また、橋の形や大きさ、アーチの角度などを計算するために、布田保之助は数学や物理学の知識を駆使しました。
橋の形状には様々な種類があり、通潤橋はアーチ橋の一種である上弦ノギス橋と呼ばれるものです。
この橋の形状は、中央部分がアーチになっており、その部分で荷重を受け止める構造になっています。
この形状は、橋の耐久性や強度を高めるとともに、美しく独特な外観を実現しています。

さらに、橋の建設には多くの人々の協力が必要でした。
布田保之助は、地元の人々に協力を呼びかけ、多くの人々が手を貸しました。
木材の切り出しや運搬、土台の設置、アーチの組み立てなど、それぞれが役割を担い、協力して橋を建設していきました。

以上のように、通潤橋の建設には、地形や資源の調査、計画の立案、知識と技術の活用、そして多くの人々の協力が必要でした。
その結果、現在でも美しい姿を保ち、多くの人々に愛される橋となっています。

地盤工事

地盤工事では、橋脚の基礎となる地盤に杭を打ち込んで支持力を増強します。
通潤橋の場合、矢部惣庄屋布田保之助は地盤が軟弱であることを把握しており、地盤を固めるために穴を掘って杭を打ち込みました。

まず、地盤を掘り下げて杭を打ち込む場所を決定しました。
その後、掘り出した穴に杭を立て、周囲に石灰を注入して固めました。
石灰を注入することで、地盤が固まり、支持力が増強されます。

また、通潤橋は横幅が広いため、複数の杭を立てて基礎を支える必要がありました。
杭を打ち込む間隔や深さも、地盤の状況に応じて計算し、打ち込みました。

地盤工事は、橋の耐久性や安定性を確保するために非常に重要な作業です。
矢部惣庄屋布田保之助は、地盤の状況を十分に調査して、安定した基礎を築くことに成功しました。

桁架設

通潤橋は、アーチの上に桁を設ける方法で建設されました。
まず、アーチの2つの両端に支柱を建て、その上に梁を渡し、桁台に設けた穴に落とし込むようにして固定します。
その後、アーチの上に梁を渡し、両端の支柱に取り付けます。

アーチ架設

桁を設けた後、アーチを設置します。
矢部惣庄屋は、アーチに必要な曲げ加工を施した木材を使用し、半円形に加工してからアーチの中央から上部にかけて設置していきます。
アーチが設置された後、アーチの両端を梁に固定します。

最終工程

最終工程では、橋の上に道路を舗装し、橋脚や欄干を取り付けます。
通潤橋の場合、欄干や橋脚には木彫りや彫刻など、美しさを追求する細工が施されました。
これらの装飾は、橋の景観をより美しく見せるとともに、地域の文化的な価値を高める役割も果たしました。

また、橋の完成後は、通水試験が行われます。
この試験では、橋の上から水を流して、橋の耐久性や安全性を確認します。
通潤橋の場合、試験には当時の豪雨量以上の水量が必要だったため、特別に雨乞い祈願が行われ、実際に大雨が降って試験を行うことができました。

通水試験に合格した橋は、正式に開通し、地域の人々の生活や交通に大きな貢献をしました。
また、通潤橋のように美しさと機能性を兼ね備えた橋は、観光地としても人気を集め、地域の活性化にもつながりました。



通潤橋の水はどこから?

通潤橋は、日本で最もユニークな水路石橋のひとつであり、江戸後期の1854年に完成しました。

通潤橋は、この笹原川の流れを渡すために建設された石橋であり、通潤用水路の一部でもあります。通潤用水路は、江戸時代後期に作られた農業用水路で、現在でも白糸台地の田畑を潤しています。

この橋は、延長30kmの農業用の疎水である「通潤用水路」の一部で、深い谷を越すために建設されました。通潤用水路は、上流約6km先にある笹原川から取水し、現在でも田畑を潤しています。

通潤橋の水は、上流にある笹原川から取水されています。笹原川は、南アルプスの山々から流れ出て、白糸台地を潤す重要な河川の一つです。

また、笹原川周辺には美しい自然が広がっており、ハイキングやキャンプなどのアウトドアレクリエーションにも利用されています。



    

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