祖父の体験談からB29のこと
筆者が物心ついた小学生の高学年の頃に祖父に聞いた話になりますが、日本が太平洋戦争(大東亜戦争とも言うらしい)で、当時の終戦間際の頃に大東京を火の海にしたのはアメリカ軍の爆撃機であるB29であったと言っていた。
祖父はこの頃には「満州」(現在の中国東北部)というところにいて、所謂、鉄道会社の社宅にいたらしいのだ。
満州にもB29の影響
其の満州にも戦争の影響が次第に濃くなってきて時折、空襲を受けることもあり、
個々の家々は灯火管制などで部屋を暗くしていたという。
兎に角、満州を含めた本土では戦争という本土攻撃も激しくなっていて、
非常時の時に備えて用具や防空のための頭巾などが手元に揃えていたという。
そんな時期に、或る日のこと突然に警戒警報がだされ、そして愈々飛行機による空襲警報が発令されたのだ。
満州でB29による恐怖の体験
当時の日本国であった満州でB29の恐ろしい体験をしたという。
実は小学低学年まで満州で育ったのだけど、其の理由は父親が満州鉄道(満鉄)の職員という関係もあって、確か、小学4年生まで満州に滞在していたのだ。
終戦間際には本土の父の実家へ帰着しましたが、満州では終戦間際に恐ろしい体験をした。
住まいは奉天市で満鉄の職員住宅でしたが、其の頃は日米の戦争も日本が苦境に立たされていたようですし、時折、警戒警報、更には空襲警報などが頻繁に発生していた。
実は警報が出るときというのは米軍のB29が満州国にもいよいよ襲来していたのである。
自分たちは、そのたびに警戒警報は家に閉じこもって電気を消すという状態にすることですし、更に警戒警報は集合住宅の地下に潜って避難したものだった。
そして或る日のこと、警戒警報の直後にぶーーんという爆音とともに、ズシーーん、ドドーーン、という爆発音がしばらくの間続き、其の時に住宅全体がものすごい地響きで倒壊したようなのである。
我らは住民とともに生きた心地がしなかったのだった。
しばらくして、空襲が収まって恐る恐る外へ出てみると、以前の周辺の住居などの面影はなく街全体が壊滅的な被害を受けたようなのである。
幸いに、自分らの住まいは鉄筋コンクリート作りのために、被災を免れたようなのです。
そして気がつくと、すぐ向かえの商店街と其の通りが、直径が10mもあろうかという大きな穴が空いていて、其処にお店や住宅が落ち込んでいたのです。
これは全てがB29による空襲爆撃被害でした。
そしてこの時期に、父から聞いた話でしたが、満鉄が経営している国営の巨大な鞍山製鉄所がB29による空襲によって壊滅したということでした。
B29による直撃弾
祖父たちは当時としては珍しい鉄筋コンクリートの3階建ての社宅に住んでいたが、此のときは遂に地下室の防空壕の施設に待避するようになったのだ。
そんな地下壕で避難待機している時、ブーン、ズシーンという地鳴りのような音が聞こえてきて、其れはアメリカ軍の編隊爆撃機B29による空襲であったのです。
その時、突然に物凄い音が響き渡り地下壕が振動し、「直撃弾が当たったかも知れない」と皆が言っていたのだ。
満州のソ連侵攻と引揚者
空襲警報が解けて外へ出ると、真向かいの商店街にあった床屋さんの横に大きな穴があって、床屋が其の穴に落ちそうになっていたらしいのですし、其れは大型爆弾の直撃だったのです。
それから後は、暫くの間は何事もなかったようですが、突然に「ソ連軍が満州に攻めてきたらしい」といって社宅の人全員に退避を呼びかけ、祖父達は取るものんも取り敢えず、満鉄の駅(今の瀋陽で当時は奉天と言ってたらしい)まで誘導し、その後は奉天駅から朝鮮半島を経て釜山(ふざん)へ至り、船で京都の舞鶴に引き上げてきたということである。