B29による日本爆撃の戦果と被害





B29による爆撃の戦果について

B-29スーパーフォートレスはボーイング社が開発しアメリカ合衆国が第2次世界大戦及び朝鮮戦争で使用した戦略爆撃機で、10,000ポンド(4,536kg)の爆弾を積んでサイパンから日本のほぼ全土を爆撃して帰還可能だった。

B29は、通称「スーパーフォートレス(超空の要塞)」と呼ばれ、第二次世界大戦から朝鮮戦争でも用いられたアメリカボーイング社製の長距離爆撃機である。

1944年に実戦配備され、航続距離約6,500キロメートルで、第二次大戦での対日戦や朝鮮戦争での本土攻撃に用いられたが、その後B52の実戦配備に伴って退役した。


日本へ爆撃は、初期には軍需施設への爆撃を行っていたが、1944年後半からは日本中の都市をナパーム焼夷弾により無差別爆撃するようになり、日本の大都市の殆どが壊滅した。
日本軍の戦闘機が夜間飛行が得意でないことを利用し、夜間での低空での爆撃により大きな戦果をあげた。


大きな戦果としては、1945年3月10日の東京大空襲で、325機のB29が投入され、約83,000人の住民が死亡し、26万戸の家屋が焼失した。

その後も、名古屋、大阪、神戸、名古屋(再)と大規模な空襲を行い、計約8,000人の住人が死亡し、約14万5千戸の家屋が焼失した。

ただし、B29での最終的な日本への最大の戦果としては、1945年8月の広島、長崎への原子爆弾の実戦使用による、日本の敗北を決定付けたことであろう。




B-29の主な戦果 まとめ

  1. B-29は当初は中華民国の成都から九州に対して爆撃を行っていた。1944年6月15日に八幡製鉄所を目標として75機が出撃し、以降九州や満州へ爆撃を繰り返していたが、成都からでは九州北部までしか到達できなかった。
  2. 1944年7月にサイパンが陥落し、11月24日に111機のB-29が東京を爆撃した。続いて名古屋、神戸、京都、大阪、横浜と主要都市を破壊した後地方都市の爆撃に移り、終戦までに200以上の都市が爆撃されて約56万人が死亡、230万棟の家屋が失われた。
  3. 特に1945年3月10日に行われた東京大空襲ではそれまでの工場を狙った爆撃ではなく東京の下町を焼夷弾で無差別に爆撃し、1日で8万人が死亡した。それ以降日本の各都市で同じように焼夷弾による無差別爆撃が行われるようになった。
  4. 8月6日に広島に、9日に長崎に原子爆弾を投下したのもB-29であった。
  5. B-29の側も、延べ33000回出撃して500機近くが戦闘で喪失している。日本の高射砲や戦闘機では高高度を飛行するB-29の撃墜は困難を極め、体当たりまで活用して迎撃していた。




B29日本本土空襲の経緯

太平洋戦争終盤の1944年に差し掛かると、日本の劣勢に伴い戦線が縮小した結果日本領土に対する空爆が行われた。
決定打となったのは1944年6月〜7月に行われたサイパン島を巡る戦いの敗北で、これによりアメリカの戦略爆撃機B29による日本本土全域への空爆が可能となったのである。

B29は恐るべき爆撃機であった。

爆弾搭載量は最大で9トンに達し、12,000mという高空を飛行が可能で、航続距離は約4,800kmというものでこれは、当時の日本高射砲の射高が8,000〜10,000m、迎撃機が10,000mまで上がるのも苦労するということを考えるといかに規格外であったかが分かる。

空襲は当初は、視界の良い昼間に東京近郊や名古屋、北九州などの工場や軍需工場に行われたが、日本の継戦意思に効果がないと見るや1945年1月カーチス・ルメイ少将就任の時期から、都市部への低空の夜間空襲に舵を切ることになる。


ここから日本側の主に人的な被害が増え始め、3月10日の東京大空襲では11万5,000人以上の死者を出すにいたる。
13日には大阪大空襲が行われ3,000人以上の死者を出す。
その後17日には神戸大空襲があり、死者は2,500名以上と続く。


最終的に、広島、長崎の原爆を含む全国の死者は56万人に及び文字通り日本全国の都市が焦土と化した。
これに対し、日本側では航空機、高射砲、果ては航空機による体当たりなどで必死の反撃を試みたもののB29の最終的な損害は約500機で、延べ33,000機の出撃に対してはあまりにも軽微であった。

日本本土空襲は戦前から存在した、日米の技術格差が最大限に広がった末に起きた悲劇である。



昔、祖父から聞いたB29攻撃の話

もう亡くなった祖父に戦争の話を聞いていました。

小学校の社会の勉強で、第1次世界大戦、第2次世界大戦の勉強をしていた頃でした。

戦後末期、B29がやってくると、焼夷弾を落としていき、昭和時代の一般家屋は木造建築だったので、焼夷弾を落とされると、周りの家々が焼け野原になったと祖父は言っていた。

B29といえば、当時の日本国民は辛くて嫌な思い出があるに違いない。
沖縄戦が終わると米軍のB29は米軍基地の有る主にグァム島から日本本土への直接攻撃が行われるようになった。
攻撃の対象は始めの頃は日本軍の軍事基地や軍事工場などが対象であったが、その後の攻撃は大都市圏から地方の都市へと広がっていったのである。

そして、遂には広島、長崎に世界ではじめて原子爆弾を投下した飛行機でもあった。


当時の戦争記憶体験者は年齢的には既に80代を超えた人たちであろうが、其れ等のB29の攻撃は恐怖の記憶として残っているはずである。

当時のB29の攻撃は日本は既に、一部では高射砲で狙い撃ちはあしたらしいが、殆どのところでは防空システムは破壊されていて無防備状態であり、米軍のB29の常時、100機以上の編隊飛行爆撃はやりたい放題で、所謂、後半には無差別爆撃と言われるほどの状況であったのだ。


B29は、現在ではB737、B747、B777などのジョット旅客機でも知られているが、米国の航空会社であるボーイング社が開発した軍用飛行機で、当時は勿論、プロペラ機で戦略爆撃機ともいわれていた。

軍事施設には主に瞬発爆弾(100から250ポンド)を爆撃、其れに都市部や住宅地域には火花が飛び散る焼夷弾を落としたとされる。

第2次世界大戦時は焼夷弾の様な爆弾で、日本中が焼け野原になったのである。

焼夷弾だけではなく、広島、長崎に原爆が落とされ、日本は敗戦になったのである。



焼夷弾とは

焼夷弾
焼夷弾
焼夷弾を使う目的は、攻撃対象を焼き払うことだった。
今ある様な爆弾は発生する爆風や対象物を破壊するというものでは無かった。


焼夷弾の中身は焼夷剤である。
焼夷弾が落とされると、爆弾が落ちた所から、急激に火の手が上がって、家屋が燃え出したと祖父は言っていました。


自分でインターネットを使って調べてみると、焼夷弾にはテルミット焼夷弾、油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾があることが分かっている。
昔、祖父は何か油の様なものが入っていたと言っていたので、実家付近に落とされた焼夷弾は油脂焼夷弾ではないかと推測できる。



子供の頃、実家で焼夷弾の実物を見ました
色々と祖父から、戦争の話を聞いた際、実家の納屋に置いてあった焼夷弾を見せてくれました。

長さは40cmほど、直径10cm程度の円筒で、中は何もなく、単なるパイプ状で、鉄製で、既に錆びだらけ状態だった。

円筒の中の空洞部分に焼夷剤が入っていたのでしょう。

小学生の子供でしたが、こんなちっぽけな爆弾で、日本は焼け野原になり、敗戦に追い込まれたのかと、焼夷弾を見せられて、感じたことを今も覚えている。



B-29による無差別攻撃から逃げ惑うしかなかった哀れな一般市民

B-29の性能は素晴らしく、これに対して、日本の防空体制が非常に不備だったと感じている。

消化する水が足らず、その当時のトイレは汲み溜め式だったので、小水も使って、家の消火をやったと言っていました。

祖父は無我夢中で、自分の家を守りたい一心で消火作業をやったのでしょう。

気が付いた時には火が消えていたけど、周りを見渡すと、一面が焼け野原状態だった、自分の家は辛うじて、何とか、全焼せずに済んだと語ってくれました。

そんな状況だったのですから、一般市民は逃げ惑うしかなかったのでしょう。
また、それだけ、B-29は恐ろしい戦闘機だと思ったことでしょう。



B29かグラマンの銃撃痕銃撃跡

自分が昔埼玉県の江南町今の熊谷市にゼクセルという会社があり、現在のボッシュになりますがその当時私は期間工としてクラーのシャフトの製造に関わっていた。

その時仲良くなった主任さんから工場を案内されて、その工場にB29かグラマンの銃撃跡が残っている建屋があった。

終戦直後、熊谷空襲(1945年8月15日)がありましたが当時この工場では、日本軍で使う高射砲を製造していた。


軍事工場ということで狙われたらしい。

熊谷という土地柄、死人はでなかったそうだが空襲もおそらく始めての体験だったようだし、今でもここ江南地区は相当の田舎である。

当時はもっと田舎だった訳で、こうした田舎町に空襲が行われるということで地元の人は旋律がはしったに違いありません。

それが未だになまなましく残っているのがなんとも言えないところである。


建物も相当古いものでしたが、B29はすでにどこかで空襲し終わって幸い爆弾は保有してなかったのかもしれない。

熊谷空襲自体、あまった爆弾を処分する為に行われたと言われている。

終戦1日前の出来事だったという。

    

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日本軍はB-29の撃墜方法として高射砲や四式戦闘機で抵抗した
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