伝説の男!!船坂弘!

現在の歴史教科書にも記載されていない伝説の男がいた。
陸軍軍曹船坂弘(ふなさかひろし)。
栃木県出身の陸軍軍曹である。
1941年に宇都宮第36部隊に現役入隊した。
満州に渡って斉斉哈爾第219部隊に所属、ソ連軍の進行に備えた。
主にノモンハン付近、アルシャン、ノンジャン、ハイラル一帯の国境警備隊として活動していた。

陸軍軍曹時代の船坂弘の肖像

優れた実績を残す

船坂は剣道、銃剣術の有段者であり、特に銃剣術では「船坂の銃剣術は腰だけでも3段に匹敵する」と言われる程だった。

また中隊随一の名小銃手でもあり、入隊以来30回の賞状、感状を受けていた。

後に「生きている英霊」「不死身の分隊長」「凡用人型決戦兵器」と畏敬の念を込めて呼ばれることとなる。

海外からも「グンソーフクダ」(フクダは捕虜時の偽名)と呼ばれ、一目を置かれていた。


アンガウルの戦い


アンガウルの戦いはパラオーマリアナ戦の最後の戦いであり、この戦いで、船坂は大きな役割を果たすこととなる。

米軍の目的はアンガウル島を占領して本土決戦のための飛行場を作ることだった。
この島にいた日本兵約1400人に対して、米軍は2万2000人であり、約10倍の軍勢だった。



玉砕、そして復活

戦いが始まると、仲間は次々に砲弾に倒れた、それは島が変形するのではないかというくらいの凄まじい攻撃だった。

そんな中船坂は1人敵陣に進み、自らの臼砲にて米兵を100人以上倒した。
臼砲

しかし敵陣の中で負傷し動けなくなり、日本軍も追い詰められていった。

自決しようとしたが手榴弾は不発、瀕死の状態で拳銃片手にゾンビのように戦い続けた。

銃弾は20発以上受けていた。

米軍の安置所に運ばれた時にはみなコイツは死んでいると思った。

そしてその手には拳銃が握られていた。

死してなお拳銃を離さない姿に戦慄したという。

その後奇跡的に息を吹き返し、捕虜となり収容所を転々として1946年帰国した。

退役後

退役後の船坂は、戦前のGHQの焚書政策に激怒し、古書店を密かに営みながら、貴重な戦前の書物やフィルムなどの資料を収集した。
その資料から、南京大虐殺の真実を突き止める証拠や、戦前の日本の正当性や、共産主義勢力(コミンテルン)の策謀などの後世の戦士研究に多大なる貢献をした。
まさに、日本の誇れる国士である。





    

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