歴史上の人物で、本当は存在しなかったのではないか、または途中ですり替えられた偽物だ、という説は、卑弥呼の昔から幾つか提唱されてきました。
その中で、近代の混乱の中ですり替えられた、とされる
明治天皇については、近年何冊もの本が書かれ、余りの緻密な調査に、恰も本当にすり
替えられたのではないかと思えてきます。
室町時代にあった皇室の南北朝時代は、南朝の天皇が北朝の天皇に三種の神器を渡して終了します。
つまり、現在の天皇家は当時で言えば北朝の後裔に当たられます。
南朝が北朝に皇位を譲った形から、水戸光圀等、江戸から明治期には「南朝正当論」が盛んに唱えられました。
では、明治天皇すり替え説について、肯定論、否定論、両方を見ていきましょう。
天皇がすり替えられた疑惑について
肯定論
まず、明治維新で日本中、就中京都が大混乱に陥っている間なら、本物の天皇が暗殺され、他の天皇家の血を引く人物が皇位に就くことも、宮中の奥深くでは可能なのではないかと、一般人は思ってしまいますね。
明治天皇すり替え説は、昭和4年に当時の宮内大臣田中光顕が告白したのが始まりとされています。
明治天皇とすり替わったのは、大室寅之祐という人物で、南朝の後裔であり、ずっと毛利家に依って守られてきたということです。
数百年の間、血が途絶えることもなく、毛利家は守ってきたのでしょうか。
しかし、この人物は実は大室家とは血縁関係にありませんでした。
しかし、母親の再婚相手が大室姓であった為、大室姓を名乗り、南朝の血を引くと言い出し、長州藩が天皇の座に就けます。
万世一系はどうなったのでしょうか?
また、明治天皇は、即位前と即位後に以下の様な違いがあったので、すり替え説が信じられるようになったのも無理ないことかもしれません。
- 即位前は虚弱体質、泣き虫 即位後は頑健
- 即位前はあばたが無かったのに、即位後はあったのでヒゲで隠した
- 即位前は右利きだったのに、即位後は左利きだった
これらがすり替わり説として、有力な証拠とされています。
特に、右利きが左利きになったと言うのは、本当なら別人だと考える有力な根拠になり得そうです。
実際明治天皇は身体が頑丈で、相撲好きで、臣下と相撲を取って、自分が投げられたりもしています。
天皇と言えど男性です。平安の昔から相撲の節会(すまいのせちえ)は、歴代天皇が何より楽しみしていた年中行事でした。
歴代の天皇は自分が相撲をとることはありませんでしたが、明治以降長州藩が実力を握り、武家出身の家来が出来たので、一般で育ったすり替え天皇は遠慮なく相撲を取ったのでしょうか。
否定論
明治天皇すり替え説の本を書いた著者の一人は、 「すり替えられた明治天皇は産みの母親(中山の局)と一度も会わなかった。」「これは実の親子なら考えられない。」
と述べています。
天皇が入れ替わったことが生母にわかってしまうことを恐れてのことでしょうか。
しかし、明治宮中で女官を勤めた女性が著した本の中には、 「(養母である」英照皇太后御在世中は、中山の局が、御機嫌伺いに参内したことを言上しても、
『うん』 と仰せられたきり滅多に拝謁を許されな(かった)。ところが、英照様崩御の後には、いつも拝謁を許され(た)。あれは母宮様(英照皇太后)に対する細かい御心遣いでおありになったのだと(中略)誰かに聞かされました」
と書いてあります。
即位されてからも、
生母と会っていたことがハッキリ書かれています。
また、明治天皇ご自身が、幼い頃やんちゃが過ぎると、母である中山の局に物置の中に入れられた、でも、自分一人を入れる訳にも行かないので遊びのお相手の者も一緒に入れられた、と仰有っています。
どうもおとなしく泣き虫では無かったようです。
更に、明治天皇は侍従に 「自分は京都で育ったから、あの静かさが好きだ。丁度良い所(現在の京都府にある桃山陵)を見つけたから、京都に墓を作って欲しい」 とも言い残されています。
大室寅之祐は山口県田布施町育ちですから、このような言葉は出てこないのではないでしょうか。
まとめ
どちらかと言うと、否定論に傾いた書き方になってしまいましたが、明治天皇(大室寅之祐の方)が写っているとされる写真は、人違いであることが分かったおり、写真の方がすり替えられたような恰好なのです。
明治天皇ご自身は写真を撮られることがお嫌いだったので、生前に取られた物は御成婚時の物と、演習をご覧になっていた時に隠し撮りされた物位しかありません。
何しろ幼少期と全然体格が違う、自分の祖父が明治天皇になったという老人がいた、あの明治維新の動乱期ならあり得ることだ、等のことから、歴史家や研究家までが真剣に調べた結果、出された「すり替え説」です。
是非本などを読んで、自分で判断してみて下さい。