旧日本軍内部の実情

陸軍海軍の仲の悪さ

日本軍内で陸海軍の仲の悪さは軍事に興味ある者にとって常識だろう。

大戦中はお互いに失策を知られることを嫌い真実を伝えなかったために有利な戦況報告を信じ出兵した結果、惨敗を喫することなどがあった。

またドイツの兵器のライセンス生産を行う際、日本軍としてライセンス権を購入するのではなく陸海軍それぞれが別々にライセンス権を購入しドイツから見れば一粒で二度おいしい状態で無駄金を使うことも多かった。

陸海軍がお互いに協力的であれば、もう少し敗戦の被害を免れることはなかったであろうが、あのような悲惨の戦いの繰り返しにはならなかったであろう。


大日本帝国の陸軍と海軍が不仲だった理由

大日本帝国の陸軍と海軍が不仲だった主な理由は、それぞれの軍の役割や目的が異なっていたことが挙げられます。

陸軍は、日本帝国の領土保全と拡大を主な目的とし、中国や朝鮮半島、そして太平洋地域における戦争に重点を置いていました。
一方、海軍は、日本の経済的利益や海上交通路の確保を目的とし、東アジアの周辺海域における海軍力の拡大を重視していました。

このような違いが、両軍の戦略や予算配分、戦争の方法や戦略などに関して意見の不一致を生じさせ、不和の原因となりました。
また、陸軍は国家主義的で専制的な傾向があり、海軍は比較的に現実的で穏健な姿勢を取ることが多かったため、その差異も不和の原因となったと言われています。

さらに、海軍は主に士官階級が出身であったのに対し、陸軍は徴兵制度があったため、下士官や兵卒などの出身階層が比較的低く、社会的な格差が存在していたことも、不和の原因となったと考えられています。



陸軍と海軍にどんな違いがあったの?

大日本帝国の陸軍と海軍には、様々な違いがありました。
以下に代表的な違いをいくつか挙げます。

役割と目的の違い

陸軍は、日本帝国の領土保全と拡大を主な目的とし、陸上での戦争に重点を置いていました。
一方、海軍は、日本の経済的利益や海上交通路の確保を目的とし、東アジアの周辺海域における海軍力の拡大を重視していました。

組織の違い

大日本帝国の陸軍と海軍は、組織的にも大きな違いがありました。

陸軍は、独自の軍事組織である陸軍省によって統括されており、陸軍省内には各種の専門部局が設置されていました。

陸軍は、従来の武士団的な組織を踏襲しており、将校と下士官・兵卒という明確な階級制度を持っていました。

また、陸軍の階級は、将校が大佐までが一つのグループとされ、その上に陸軍大臣や参謀総長などの高官がいました。

また、陸軍には、戦闘部隊を中心にした地上戦を担当する陸軍省がありました。

一方、海軍は、陸軍に比べて技術的な分野に重点を置いた組織であり、船舶や兵器の開発や海洋測量などの技術的な任務を担当していました。

海軍の階級制度は、陸軍とは異なり、少佐以上の将校には一つのグループが設けられ、その下に中尉以下の将校、さらに下士官や兵卒が続きました。

また、海軍には、海軍省、海軍航空隊、水雷艇隊、潜水艦隊など、陸軍とは異なる部隊が存在しました。

このように、陸軍と海軍は、組織的にも役割分担が明確にされており、異なる任務に従事していました。

しかし、このような組織的な違いが、陸海軍の協調を妨げ、不和や対立を生むことにもつながっていました。

人材の違い

大日本帝国の陸軍と海軍との間には、人材に関する格差問題が存在していました。

陸軍は徴兵制度を導入しており、下士官や兵卒などの出身階層が比較的低く、社会的な格差が存在していました。
また、徴兵制度によって軍隊に入隊することができない者も多く、これによって人材不足が生じることもありました。

一方、海軍は主に士官階級が出身であったため、出身階層の差異があまりなく、社会的な格差が小さいと言われています。
また、海軍は陸軍と比較して技術的な分野に重きを置いていたため、大学卒業者や技術者などの高度な知識と技術を持つ人材を多く抱えていました。

このような格差が、陸軍と海軍の間に対立や不和を生むことにもつながっていました。
また、この格差が社会全体にも影響を与え、戦争中には徴兵によって軍に集められた兵士の中にも、教育や訓練が不十分であったり、体力や精神力に問題があった者が多く含まれていたことも指摘されています。

技術の違い

陸軍は歩兵や騎兵、砲兵などの兵器を中心とした戦術を採用していました。
一方、海軍は、軍艦や潜水艦、航空機などの技術を駆使して、海上での戦闘を行っていました。

これらの違いが、両軍の戦略や予算配分、戦争の方法や戦略などに関して意見の不一致を生じさせ、不和の原因となりました。

あまり知られていない歩兵の火力

日本軍は突撃のイメージがある。
日本軍の突撃イメージ日本軍の突撃イメージ

実際に行っていたが、それは最後の最後の手段だ。

当時、歩兵の持つ銃は多くの国で単発式が主流で支援火器として機関銃が配備されたがコスト面から日本軍では全軍への配備は出来ず擲弾筒と呼ばれる小型迫撃砲のようなものが配備された。

これによって攻勢時における瞬間火力は米軍を上回っていた。



兵器の実情

大日本帝国の陸軍と海軍では、兵器に関しても格差が存在しました。

陸軍は、従来の歩兵中心の戦闘方式を踏襲しており、主力兵器としては、軽機関銃、重機関銃、歩兵砲、野砲、山砲などがありました。
また、歩兵には、旧式の三十年式歩兵銃や、新型の九六式歩兵銃が配備されていました。しかし、陸軍は、機甲部隊や航空部隊の整備にはあまり力を入れておらず、その点で海軍に比べて劣っていました。

一方、海軍は、軍艦や潜水艦、水雷艇などの艦船を主力兵器としていました。
また、海軍は、陸軍と比べて航空部隊の整備に積極的であり、戦艦や空母を保有し、空中戦においても優位性を持っていました。
また、海軍は、魚雷や爆雷などの水中兵器の開発も進め、陸軍に比べて技術的な面でも優位に立っていました。

このように、陸軍と海軍では、兵器の種類や開発においても、異なる特徴を持っていました。
しかし、戦争の進展に伴い、両軍ともに新しい兵器の開発に着手し、兵器の性能や効率を向上させることに努めました。

日本軍で有名な兵器と言えばゼロ戦だ。
ゼロ戦は実戦投入後、約一年、戦闘での損失が無く日本海軍の花形だった。

しかし、戦局が圧迫していくと生産過程での不具合、不良により質が低下し本来の性能を引き出せないことが多くなっていった。

これはゼロ戦だけでなく陸海軍が使用する様々な兵器が同じ状況となり、前線での運用に支障をきたしより戦局が不利となる要因となっていった。



海軍の優遇について

海軍は陸軍に比べて技術的に優位に立っており、また軍備においても陸軍に比べて優遇されていたため、そのことが陸軍に不満を与え、対立の火種となったことは事実です。

また、海軍幹部たちは陸軍の作戦計画について批判的であり、海軍の見解を主張することが多かったともいわれています。

大日本帝国の陸軍が海軍に対して抱いた不満は、軍事力の格差、予算の配分の不公平、作戦計画における意見の対立などが挙げられます。

まず、陸軍は海軍に比べて軍事力が劣っており、特に航空機や戦車の整備が遅れていたことから、海軍に対して不満を抱いていました。
陸軍は、海軍よりも大陸部での戦いを重視していたため、陸軍の戦力強化が急務であったとされています。

また、予算の配分についても不満がありました。海軍は、その強力な艦隊と技術力の高さから、予算が陸軍よりも多く配分されていました。
陸軍側は、海軍に比べて自軍が不当に軽視されていると感じ、予算の配分に不満を抱いていたとされています。

さらに、作戦計画においても、陸軍と海軍の意見の対立が見られました。
陸軍は大陸部での戦いを重視していたため、満州国の建国や華北・南進政策を進めることを主張していました。
一方、海軍は、南方への進出を主張し、海洋進出政策を重視していました。
このように、陸軍と海軍の戦略的な違いが対立の要因となっていました。

軍のエリート意識

当時はどの国でも軍での出世は社会的ステータスの一つだ。

日本も例外ではなく、特に海軍はエリート意識が強く陸軍にはない“特務士官”と呼ばれる階級が存在した。

これは士官学校を出ていない二等兵から軍隊生活を始めた兵士のうち、優秀な者を士官とする制度だった。

昭和17年に階級から特務という名称は外されるがその後も士官学校出の少尉の指揮下に階級が上のはずの“元”特務士官が入ることがあった。

陸軍は海軍と比べれば、ましだったようだが、やはり階級は社会的ステータスだったためエリート意識は存在していた。





    

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