クリス・べノワ

カナダの英雄 クリス・べノワ

クリス・べノワは1967年、カナダで生まれた。

少年時代に初代タイガーマスクのライバルであったダイナマイト・キッドというレスラーにあこがれたべノワは自身もプロレスラーの道を目指しカナダ有数のプロレス道場である「ハート道場」にわずか16歳で入る。
そして、彼が18歳になった1985年には念願のデビューを果たした。

彼はその端正なルックス、それに相反するようなテクニカルなファイトスタイルでその才能をいかんなく発揮することを周囲に期待された。



英雄伝説

やがて、1987年。

彼が20歳になるとべノワは「新日本プロレス」に研修生として入団を果たした。

彼のファイトスタイルは日本のがある意味マッチしていた事もあり、彼は「ペガサスキッド」というリングネームで新日本のライトヘビー級を代表するレスラーであった獣神サンダーライガーのライバルとして君臨する。
彼の存在はライガーも好敵手としてみており、多くのファンから敬意をもって接された。

ここで、べノワはある男と出会う。

後に親友になるエディ・ゲレロであった。



英雄の頂点

やがて、90年代になると日本を去りアメリカのWCWに主戦場をうつしたべノワであったがそこでは不遇の時代をすごすことになる。

当時、WCWにいたのは「超人」ことハルク・ホーガン率いる「nWo」であった。

リング内外でもその政治力を発揮した「nWo」を嫌悪したべノワは黙々とプロレスを行っていたが、べノワは身長180㎝というプロレスラーとしては小柄すぎる見た目から「前座」として扱われることが増えるようになった。
それは彼だけではなかった。

新日本で出会ったエディ・ゲレロも同じくだったのだ。

エディとともに不満をためたべノワはライバル団体であったエディを含めた複数の仲間とともに2001年にWWFに移籍を決めることとなった。

WWFはWCWよりも先鋭的なエンターテイメント路線を歩み、世界最高のプロレス団体として徐々にその歩みを歩んでいた。

社名もWWFからWWEに変わっていった。
ここでべノワは当時五輪金メダリストだったカート・アングルと名勝負を繰り広げ、一気にその才覚をあらわにする。


エディも薬物依存を乗り越え、一度解雇されるもすぐに戻ってきた。
やがて、今まで主力であったロックやストーンコールドの引退・離脱を経験し主人公としての選手を探していたWWEはべノワとゲレロに注目した。



そして、2004年。
彼らが主役になる日がきたのだ。


世界最高のプロレス興行「レッスルマニア」、そこでエディ・ゲレロはカート・アングルに挑み、クリス・べノワはトリプルHとショーン・マイケルズのみつどもえに挑むこととなった。

ショーンはべノワにとって兄弟子であったブレット・ハートをWWEから追放した不倶戴天の敵ともいえる宿敵だった。

べノワは下馬評を退け、ショーン・マイケルズを兄弟子の必殺技だったシャープシューターで追い込みギブアップに追い込んだ。

この時、彼は世界ヘビー級王座というプロレス界最高のベルトを獲得し、事実上世界の頂点に君臨した。

彼の勝利をたたえ、親友のゲレロはべノワと抱き合う。

ファンはそんな二人をたたえた。


この時、二人は世界の中心だったのだ。

だが、それも長く続くことはなかった。

2004年、夏の大興行「サマースラム」でべノワは10歳以上年下の若手であったランディ・オートンに敗北した。

泣き崩れながら勝利を祝うオートンの元に駆け寄り「男になれ」と勇気づけた。

英雄は負けても英雄であった。

しかし、そんな二人に思いもよらぬ悲劇が待っていたのだ。



堕ちる英雄

2005年、二人の別れは唐突にやってきた。

エディ・ゲレロは38歳という若さでこの世を去った。

世界中は悲しみに包まれていった。

明るく爽やかな笑顔で周囲を包む太陽だったエディ。

孤独な戦士であったべノワは最大の理解者であった戦友を失ったのだ。

べノワは大きな悲しみに包まれた。


寡黙でタフなべノワが子供のために泣きじゃくる場面は多くの人を悲しみにつつみこんだ。

そして、それ以降彼は人が変わったように精神が不安定になった。
WWEの興行もサボることが増えた。

そして、2007年悲劇は起きた。


べノワは妻子供を含めた一家を巻き込み一家心中を行った。


WWEはクリス・べノワの名前をWWEの歴史から事実上「追放」に追い込んだ。

だが、彼の記憶は永遠に残り続けていくのだ。
プロレスがこの世にある限り。



    

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