モントリオール事件
モントリオール事件がおきるまで~マンデーナイトウォーとは~
1990年代半ば、それまでWWF(現・WWE)の英雄であったハルク・ホーガンがライバル団体のWCWに移籍になった。
これがきっかけになり、WCWでは日本・メキシコのリングすら巻き込むnWoの大ブームがおきた。
これにより、徐々に子供向けが進んでたWWFは過激な物を求める往年のファンから見捨てられつつあった。
WWFの会長であるビンス・マクマホンは経済苦に追い込まれることとなった。
その時起きたのは視聴率戦争を「月曜日の戦争」、マンデー・ナイト・ウォーといわれていた。
WCWと交渉を行ったWWFは当時の主力選手であったブレット・ハートを解雇することでなんとか経済状況を整えなければいけないほどおいこまれたのだった。
二人の主人公、ブレット・ハートとショーン・マイケルズ
ここで事件の主人公となるブレット・ハートが登場する。
カナダで有名なハート道場で生まれ育ったブレットは80年代は新日本プロレスなどで活躍するほどの猛者であった。
ホーガン残留前後にアメリカ政府からドーピング問題で目をつけられていたWWFはホーガンに代表されるマッチョマンではなくブレットのようなスタンダートなレスリングのうまいテクニシャンを主力に置くことを考えていたのである。
ホーガンに代わって主人公となったブレット・ハートは数多くの名試合を生み今でもカナダでは英雄として語り継がれている。
そんな彼には公私ともにライバルになるショーン・マイケルズと出会うことになる。
やがて、ショーンはブレットを超える人気を獲得していく。
寡黙でストロングスタイルのプロレスにも順応するハートと、派手なショーマンレスラーであるショーンは水と油の関係であり、お互いに自分がトップでなければいけないエゴとプライドの持ち主であることから同族嫌悪にも似た感情を抱いていた。
この時、WWFはハートではなくショーンを選んでいた。
若く才能があるショーンはWWFが考えていた過激路線とマッチしていたのだ。
だが、ブレット・ハートはプロレス名門の「ハート道場」で育ったことへのプライドからか過激路線に行くWWFを許せないでいた。
そこで、WWFの会長であるマクマホンはある脚本を思いついた。
それは当時のWWF世界ヘビー級王座を保持していたブレット・ハートをはめて追放するというものである。
モントリオール事件の内容
そして、事件は起きることとなる。
1997年11月9日。
カナダ、モントリオール。
地元の英雄であったブレットはその日、WWFから渡されていた脚本に難色を示すものの受け入れることとなった。
その脚本の内容とはショーン率いる「DジェネレーションX」とブレット率いる「ハート・ファウンデーション」の抗争で試合はノーコンテスト、その翌週のTV放送でブレットから王座をはく奪するというものであった。
カナダで負けることを拒んだブレットと彼を追い出してショーン・マイケルズにベルトを渡したいWWF両社の思惑は一致する普通のシナリオであったはずだった。
犬猿の仲であった両者は試合になると恐ろしく噛み合い、好勝負の予見をのぞかせた。
ここまでは普通であった。
だが、しかし試合が終盤にさしかかりショーンがブレットの必殺技であるシャープシューターを繰り出した。
プロレスの世界では対戦相手の必殺技を奪うのは「掟破り」であるといわれている。
この掟破りで恥辱を浴びせ、さらに唐突に試合終了のゴングがならされブレットの敗北で突如終了となった。
この時ブレットは自分がはめられたと知り、天を仰ぎ怒り狂いながら男泣きをした。
そして、このままWWFを解雇となってしまった。
地元のカナダは暴動寸前となった。
和解した英雄たち
時代は流れ、2010年。
WWFはWWEに名前を変え、ブレットとビンス、ショーン・マイケルズは和解できぬまま時は過ぎていた。
ブレットはすでに引退し隠居の身であった。
そんな中、親戚の子供がゲームセンターでWWEのゲームを遊んでおりその際に使用されていたのがブレット・ハートであったことを知る。
形は違えど、英雄として人々の記憶に残っていることにブレットは感激した。
そして、時が過ぎると自分のわがままさと横柄さに気が付いた。
これはショーンも同じだった。
そこでWWEからオファーを受け、ブレットは再びWWEのリングに上がった。
やがて、そのまま当時の黒幕であったビンス・マクマホンとの抗争に発展10年以上の遺恨に決着をつけたのだった。
そして、その場でブレットは引退を発表。
成長した当時の子供たちは歓声とともにブレットを見送ったのだった。
かくしてブレットとWWEは和解を果たした。
そして、現在でもその関係は良好なものになっている。