連合艦隊

日本防衛の要 連合艦隊とは?

連合艦隊(れんごうかんたい)は、日本海軍の艦隊編成の一つであり、太平洋戦争中の日本海軍最大の艦隊でした。
連合艦隊は1941年12月に編成され、指揮官に山本五十六大将が就任しました。

連合艦隊は、日本の戦略的な海洋防衛を担い、日本の主要な戦線であった太平洋戦争において、米国やオーストラリア、イギリスなどの連合国の艦隊と交戦しました。
また、南方作戦においては、オランダ領東インドやシンガポール、フィリピン、マレー半島などの戦闘にも参加しました。

しかし、1944年10月に行われたレイテ沖海戦で、日本の艦隊は壊滅的な被害を受け、以降は連合艦隊の存在意義は薄れていきました。
最終的に、連合艦隊は1945年に解散され、日本の敗戦とともに日本海軍は消滅しました。

連合艦隊とは2個以上の艦隊で戦時編成される旧日本海軍の艦隊である。

通常軍艦ないし艦隊は、それぞれの母港に所属し、それぞれ近海の哨戒などの任務にあたる。
正確に言うと、旧日本海軍において、複数の艦隊を統合して戦時編成された海軍の総指揮機関を「連合艦隊」と呼びました。連合艦隊は、複数の艦隊をまとめ上げて、より効率的な指揮・運用を行うことができ、日本海軍の主要な戦闘組織の一つでした。

しかし戦時になると、通常の任務を離れて国土の防衛を行うため戦時編成として一括して指揮統合を行うために日清戦争時の1894年当時の大佐、山本権兵衛の発案により編成された。

そんな連合艦隊であるが、大正に入り戦時が半ば常態化してくると1923年戦時編成を止め、常設されることになる。


1922〜1936年の国際協定により軍艦の建造に制限が加わった、いわゆる海軍休日(日本は1934年に脱退)の時代を除き、連合艦隊の戦力は最大で建艦費が国家予算の3分の1に達するなど増加の一途をたどることになる。

1922年にワシントン海軍軍縮条約が締結され、1930年にはロンドン海軍軍縮条約が締結されました。

これらの協定により、各国の軍艦の建造数や総トン数が制限されました。

しかし、日本が1934年に脱退した後は、連合艦隊の戦力が増加し、戦艦や航空母艦などの新しい艦種が導入されました。

この時期には、世界最大の戦艦「大和」など、強力な艦艇が建造されました。


また、長門型2隻、大和型2隻と竣工時世界最大級の戦艦を保有し、新艦種の航空母艦も航空機兵力ともども取り込まれ、アメリカ、イギリスと肩を並べる巨大な戦力を持つに至るのです。





大日本連合艦隊の栄光と歴史

連合艦隊といえば、東郷平八郎が指揮する大日本連合艦隊のことであろう。
戦艦三笠を旗艦に当時最強と言われた、ロシアのバルチック艦隊を日本海海戦で破ったのは有名である。

連合艦隊の基地は現在も横須賀、舞鶴、呉、佐世保に存在し、海上自衛隊の基地となっており、そこに配属された艦隊を編成し構成されるのが連合艦隊だった。

そして連合艦隊の運命を決める戦いが始まる、それが大東亜戦争である。

連合艦隊は、ワシントン海軍軍縮条約により日本は保有する戦艦の数を減らす事となる。



連合艦隊司令長官 山本五十六

昭和16年日米開戦は時間の問題という空気が漂っていた。
何とか日米開戦を策謀し続けて、アメリカを戦争に巻き込もうと暗躍した男が一人います。


それが当時の連合艦隊司令長官 山本五十六(大将)です。
山本五十六
山本五十六

彼は連合艦隊・旗艦の戦艦「長門」の艦上にあり、大将旗を長門のマストに翻しておりました。


しかし、日米開戦となった時には、従来通りの艦隊決戦ではなく航空戦力が物をいうと見越していた偉大な人物とされています。

連合艦隊の戦力

太平洋戦争開戦時

太平洋戦争開戦時の連合艦隊の戦力は、9個艦隊、戦艦10(大和、武蔵は未入)、空母9を含む205隻という空前の規模であった。

艦隊の内訳は、第一航空戦隊「赤城」「加賀」、第二航空戦隊「飛龍」「蒼龍」、第五航空戦隊「翔鶴」「瑞鶴」、第八戦隊「利根」「筑摩」、第三戦隊(第一小隊)「比叡」「霧島」、第一水雷戦隊「阿武隈」をはじめ駆逐艦9隻、「霞」や「夕雲」「不知火」など。

柱島泊地には連合艦隊旗艦の「長門」、「陸奥」の第一戦隊、第二戦隊は「伊勢」「日向」「山城」「扶桑」、その他には駆逐艦や軽巡洋艦多数、軽空母「鳳翔」「春日丸」など。

南方作戦部隊の艦隊は第三戦隊(第二小隊)の「榛名」「金剛」や第五戦隊の「妙高」「羽黒」やその他、「鳥海」や「高雄」、「青葉」「古鷹」、「長良」「川内」「球磨」、「嵐」「風雲」「白露」「峯雲」「朝雲」「朝潮」「黒潮」など。
これらの連合艦隊は真珠湾攻撃を皮切りに、ミッドウェー海戦まで大暴れし、太平洋に君臨した連合艦隊である。


その後太平洋戦争での結果は周知のことであるが、1944年のマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦を経て終戦を待たずに、その戦力はほぼ壊滅となりその幕を閉じた。




連合艦隊旗艦 戦艦「大和」
昭和17年2月12日に、連合艦隊旗艦の戦艦「長門」から完成直後の最新鋭戦艦「大和」に旗艦が移行した。

山本長官を補佐する連合艦隊参謀長の、宇垣纒(少将)は「大和」を見て「いやぁ。でっかい。まさに浮かべる城ですなぁ」と興奮したと言う。

やはり連合艦隊旗艦は「大和」が妥当だと思います。

この頃が日本海軍の全盛期だと思っております。

山本長官に宇垣参謀長に戦艦「大和」誰も敗北なんて考えた事もなかったでしょう。



終戦時

終戦時は大型艦艇は戦艦4(行動不能含む)、空母6(行動不能含む)といったもので、無傷で戦闘可能な最大艦は軽巡洋艦酒匂のみというものであった。


結論からいうと当時の日本の国力からすると開戦時の連合艦隊は明らかに規模がオーバーキャパシティであり、損害に対する補充が効かなかった。

ゆえに被害を恐れ戦力を出し渋る傾向があり、真珠湾での第三次攻撃実施、英国東洋艦隊の追撃など、優勢な緒戦において効果的に運用がされなかった。

その後戦力が補充されず経験値が高い兵員が失われていくと、戦果も減り、敗北へ追い込まれていくのである。



戦闘

日本海海戦(1905年5月27日から5月28日)

太平洋戦争前、連合艦隊のもっとも有名な戦果といえば、日露戦争の帰趨に大きな影響を与えた、1905年5月27日の日本海海戦である。
日本側の果敢で巧みな用兵、最高度まで高まった練度と相まってロシアのバルチック艦隊に壊滅的な打撃を与えることに成功したのである。

日本の防衛を主目的とした連合艦隊の、まさにその目的を最大限に発揮した海戦であった。

真珠湾攻撃(1941年12月8日未明)

日本海軍は昭和16年12月8日、日本連合艦隊は世界最強の機動部隊をもって真珠湾を攻撃した。

現在では航空母艦が海軍の強さを示す基準になっているが、その先がけが日本の連合艦隊によるパールハーバー、真珠湾攻撃である、ニイタカヤマノボレ1208の暗号で空母、赤木などから飛び立った艦上爆撃機、そして零戦が活躍し連合艦隊に勝利をもたらした。


真珠湾攻撃の慣行は、日米決戦における太平洋戦争の開戦の初期で、日本海軍の連合艦隊の機動部隊の空母、赤城、加賀、蒼龍、飛竜などの空母6隻、其れに攻撃用の搭載機の350機をもって、所謂、1941年12月8日未明(日本時間)、米軍の海軍基地であるハワイのオアフ島にある真珠湾を攻撃した。

真珠湾に在泊中のアメリカ太平洋艦隊の主力部隊、および隣接する航空基地を奇襲され、当初の日本軍としては大損害を与えた戦果であった。

米海軍側の損害はアリゾナやネバダなどの戦艦4隻が沈没し、4隻が重大損傷をうけたほか、多数の艦艇、飛行機、人員が失われたとされる。

日本軍側の損害は爆撃機機29機、潜航艇など5隻、他に戦闘員64名を失っている。

日本側の突然の攻撃は米国民を一致団結させ、次のミッドウェイの海戦以降は日本軍は劣勢に立たされることになるのです。




ミッドウェー海戦(1942年6月5日から6月7日)

日本海軍の全精力を結集して行われたミッドウェー作戦(1942年6月5日から6月7日)。


出撃したのは、南雲機動部隊の空母「赤城」・「加賀」・「蒼龍」・「飛龍」の他に戦艦「榛名」や重巡洋艦「利根」・駆逐艦「風雲」が護衛についた。

南雲機動部隊の後方500カイリから、山本長官直卒の戦艦「大和」「長門」「陸奥」「伊勢」「日向」「扶桑」「山城」の戦艦7隻、他に補助艦艇が200隻単位。

ところが、暗号解読にて待ち受けていたアメリカ軍に不意を突かれてしまい、4隻の空母と300機の航空機を失い連合艦隊は惨敗を喫してしまいました。

連合艦隊の惨敗
連合艦隊はミッドウェー海戦以降はアメリカ軍に押され、また1隻、また1隻と喪失し、山本長官戦死までに主力空母4隻、戦艦2隻、その他重巡洋艦や軽巡洋艦、駆逐艦を多数失った。

山本五十六連合艦隊司令長官のもとアメリカ海軍と戦う日本の連合艦隊であるが、ミッドウェー島を攻略する作戦で主力の航空母艦に護衛の軍艦、巡洋艦、駆逐艦をつけず、さらに暗号を解読され、このミッドウェー海戦で空母と戦闘機を失い、珊瑚海海戦で敗北し徐々に弱り戦う力を失う事となる。

そして連合艦隊最後の戦いそして連合艦隊の象徴でもある戦艦大和を沖縄に上陸させ砲台にすると言う作戦が開始される。

その頃には戦艦どうし撃ち合う時代は終わり航空機による戦いが主流になっていた、大和は九州の沖合いにてアメリカ海軍航空隊の苛烈な攻撃により轟沈した。

大和の轟沈とともに連合艦隊の歴史は終わったのである。


戦後、残った駆逐艦、日本の潜水艦、伊400はアメリカに摂取された。



ヘンダーソン基地艦砲射撃(1942年10月13日から14日)

アメリカ軍がガダルカナル島のヘンダーソン飛行場を保持するために、日本軍が支配していた海域に対して艦砲射撃を行い、日本軍の輸送船を撃沈することに成功しました。


ラバウル航空隊や第八艦隊(第一次ソロモン海戦)等で、戦うも中々決着がつきませんでした。


これに対して日本軍は反撃に出ましたが、結局アメリカ軍が優勢に戦いを進め、日本軍は撤退を余儀なくされました。


この艦砲射撃作戦は大成功!ヘンダーソン飛行場は使用不能になりました!


この戦いは、ガダルカナル島の戦いの一部です。




鬼の第二水雷隊輸送作戦(1942年11月30日夜)

これは決断というアニメにもなった話ですが、ガダルカナルの輸送作戦である。

アニメでも鬼の第二水雷隊田中頼三中将は、ドラム缶輸送作戦をすることとなった。


速度の速い駆逐艦で物資を届ける作戦ですが、実は海軍ではこうした輸送作戦というのは雑用という認識で、あまりやりたくない任務だった。

現に潜水艦にはロ号というのがありますが、あまりに海軍が輸送をやらないので陸軍が輸送専用の潜水艦を作ったくらいだった。


話しを戻しますが、米軍はこの第二水雷隊をレーダーで待ち伏せしていた。

しかし見事ドラム缶輸送は成功し、所謂ルンガ沖夜戦といわれるこの作戦は実はアニメでは、反対していたのは田中閣下だったそうですが、重巡洋艦ノーザンプトン沈没。
同ペンサコラ、同ニューオリンズ、同ミネアポリス3隻大破という戦果をあげてしまう。

この作戦に問題点が自分はあったと思うのは、疫病と飢えで苦しんでいる兵士に、ドラム缶を陸にあげるだけの余力があったのかという点だ。

米国はこの敗北を戦訓として、この後に魚雷艇という速度と小回りの利く船を登場させて、狭い海域での戦いに日本の水雷隊は苦戦を強いられることとなったのである。




マリアナ沖海戦(1944年6月19日から6月20日)

昭和19年6月19日に生じたマリアナ沖海戦から戦艦「大和」の沈没までを取り上げていくとしよう。

山本長官が昭和18年4月18日に戦死した。

昭和18年は両軍ともに戦力の拡充を図ったので戦線に目立った動きはなかった。


昭和19年いよいよアメリカ軍は最新鋭空母「エセックス」級を10隻単位をもつ機動部隊を持って日本が占領するサイパン、グアム島に迫った。

この拠点を陥落させればB-29を持って日本本土を空襲することができるからだ。


対して日本連合艦隊は再編された新しい機動部隊を持ってアメリカ軍を迎え撃とうとしていた。

小沢機動部隊の旗艦、空母「大鳳」(日本海軍の期待を背負っていた)をはじめとし「翔鶴」「瑞鶴」、空母「準鷹」「飛鷹」「龍鳳」、空母「千歳」「千代田」「瑞鳳」の他に、重巡洋艦「妙高」「羽黒」軽巡洋艦「矢矧」「能代」、駆逐艦「若月」「霜月」「涼月」「冬月」「雪風」「浜風」「磯風」など。


前衛部隊には戦艦「大和」「武蔵」「長門」「金剛」「榛名」などがおり、まさに世界最強の連合艦隊が勢ぞろいという陣容であったが、結果はアメリカ軍には敗れてしまったのである。

レイテ沖海戦(1944年10月20日から同25日)

レイテ沖海戦では「武蔵」や「扶桑」「山城」、重巡洋艦「摩耶」や「鳥海」や多数の駆逐艦などを失い壊滅し、組織的行動は不可能になってしまったのである。
そして、昭和20年4月7日、沖縄へ向かう途中に戦艦「大和」が撃沈され護衛の駆逐艦も沈められ、残ったのは「雪風」はじめとする4隻だけだった。

このようにして連合艦隊は事実上壊滅したのだった。





    

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