日本軍の戦闘に対する評価
敵国からみた日本軍に対する評価
戦闘の話をすると大抵、太平洋戦争の話をされまると思うが、今回は日露戦争でのお話だ。
フィンランドにカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムという元帥がいた。
彼は冬の奇跡で有名な有能な将軍として有名ですが、当時はロシアの中将だった。
非常に彼は日本軍の特に規律に対する評価がされているという。
ロシアの兵士は当時の中国領でも略奪や強姦事件をおこしているが、日本は極めて規律高くむしろ中国人は日本人に対して協力的だったと書き記しています。
彼は戦後日本にも立ち寄ったようですが、日本の規律高き軍人を見て日本に対する崇拝すら覚えているようだった。
だから日中戦争については問題視しても、ロシアとの戦争については問題視しない点はここにあると思われる。
第二次世界大戦では、こうした女性に対する性暴力に対して問題視されるが、規律を重んじる当時の日本軍が戦果をあげ続けられたのも、ひょっとするとこうした中国人の影響があったように思う。
後にフィンランドで起きる戦争も、日本軍の勇敢さに影響をうけたように思うのである。
もう一つの勢力最大到達点 インド洋の戦い
あまり知られていないが、太平洋戦争(大東亜戦争)における日本の戦場はインド洋、ひいてはアフリカマダガスカル島まで及ぶ。
主な目的は、
- 英国など連合国のインド、オーストラリア方面の物資輸送の遮断
- インド洋に展開する英国東洋艦隊を叩くことにより、西側方面の脅威を取り除く
- 英国の有力な植民地であるインドの動揺を誘い独立勢力を支援する
- 東南アジア方面の日本軍の活動を支援するだけでなく、アフリカで戦う同盟国ドイツの間接的な支援となる
といった太平洋方面で勢力を伸ばす日本軍にとって、とりわけ英国のこの地域での関与を取り除き、かつニューギニアやオーストラリア本土に近づきつつあった戦況で、この方面への補給路に影響を与えることを狙った戦争継続という点で重要な一手であった。
膨大な物資量を有し、本格的に参戦したばかりのアメリカと違い、本土・アフリカ・地中海とドイツと激戦を繰り広げる英国は日本にとっては相対しやすい存在であった。
1942年3月に日本軍のインド洋のアンダマン・ニコバル諸島占領を区切りに緒戦は日本軍優位に展開する。翌43年、日本はアンダマン島を自由インド仮政府に帰属させる決定を行い、インド独立勢力の拡大と英国への牽制にも成功する。
続く42年4月になると、インド南端のセイロン島をめぐる戦いになる。ここにはコロンボがあり、英国東洋艦隊の有力な根拠地であった。日本の空母機動部隊は、5日コロンボを空襲し港湾施設に大きな損害をあたえる。
同じく5〜8日にかけて、セイロン沖海戦が行われ、英国東洋艦隊は空母1、重巡洋艦2を失い後退する。
その結果、東洋艦隊は積極的な展開を止め日本の潜水艦はマダガスカルまで活動を広げることに成功する。
結果的に、日本側勝利で終わりこの地域では44年までは日本が比較的優勢に保つことがてきたが、1…東洋艦隊の主力である戦艦を追撃出来なかったこと。
2…海戦中の日本機動部隊首脳が、都市の空爆か艦隊の攻撃かの情報に振り回され、爆弾と魚雷の兵装転換を繰り返すなど、大きな課題を残したことも事実であり、特に後者は後のミッドウェー海戦で一番最悪な形となって顕在化するのである。
しかし、大きな視点で見た場合、戦史中あまり目立たないこの方面の戦いは戦後高まるインドの独立運動に大きな刺激を与え、現在につながる地盤を築いたという意味では、意義のあったものかもしれない。
真珠湾攻撃に対する評価
太平洋戦争の直接的な原因である真珠湾攻撃は、日米開戦を策謀する近衛文麿とルーズベルト大統領の計略によって、旧日本軍は奇襲を仕掛けることを余儀なくされた。
「ニイタカヤマノボレ一二〇八」・・・
南雲機動部隊旗艦「赤城」ではこの暗号をキャッチ!
その後、第一次攻撃隊と第二次攻撃隊と各空母を発艦し、太平洋のど真ん中に巨大な大編隊を組んで歴史に突入することになったのである。
攻撃隊の内訳としては、零式艦上戦闘機(零戦)が各空母から最初に発艦した。
この戦闘機は軽快な運動性能を誇り、航続距離も長く、20mm機銃を装備しているため大火力を持ってアメリカ軍機を圧倒することになる。
九九艦爆は命中率80%以上を誇る艦上爆撃機でパイロットたちは性能に絶対の信頼があった。
九七艦攻は魚雷を抱いて、敵陣まで迫り敵艦を沈める役目を担っていたのである。
真珠湾攻撃の戦果は戦艦撃沈4隻、他4隻が大破ないし中破、駆逐艦・巡洋艦を数隻撃沈し、その他の艦船も大破、水上機母艦1隻を撃沈、撃破航空機350機以上、その他港湾施設に大打撃を与えるという華々しいものだった。
パールハーバーを奇襲した日本軍の戦果としては、予想以上の大戦果を挙げたと評価されている。
たとえ戦争とは言えやはり国際法上のルールがあるのでは?と思っているのですが、国際政治では時に建前になってしまうのが現実です。
確かに、戦争にルールもくそもないと言う人もいると思いますが、何事もルールがあって始まることなのですが、
現実の世界は必ずしもルールに則り動いてるわけではありません。
真珠湾攻撃に関しては、様々な歴史的検証がなされており、旧日本軍は本当に不意討ちをしたという偽りの歴史を語る左翼は恥じるべきだと思います。
悔いの残るミッドウェー海戦
昭和17年5月27日の海軍記念日、朝靄をついて柱島白地を南雲機動部隊の旗艦「赤城」を筆頭に、「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4隻の主力空母を中心に重巡洋艦「利根」「筑摩」、軽巡洋艦「長良」、駆逐艦12隻(風雲や嵐など)が出撃し、その後方から山本五十六長官直卒の戦艦「大和」を中心としたミッドウェー攻略部隊が後に続くという世界海軍史に例のない大艦隊が出撃したのだ。
したがって参加艦艇は350隻、航空機は1000機。
昭和17年6月5日、南雲機動部隊の攻撃隊がミッドウェー島と空襲。
しかしながら、効果不十分ということで、敵空母に備えていた魚雷を爆弾に兵装転換中に、敵空母発見の報告が入ったのである。
二航戦の山口は「直ちに発進の要ありと認む!」と「赤城」に入電するも、正攻法での攻撃ということになり、爆弾から魚雷に転換中にアメリカ軍の急降下爆撃を受けて、「赤城」「加賀」「蒼龍」の3空母を失った。
その後、「飛龍」の反撃でアメリカ軍の空母「ヨークタウン」を大破(後に我が潜水艦が撃沈)、駆逐艦1隻を撃沈し、航空機を150機を撃墜した。
しかし、残る「飛龍」も爆撃を受けて大破し後に撃沈。
この海戦で「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4空母と重巡洋艦1隻、航空機320、人員3,000人以上を失った日本海軍は、この後弱体化の一途を辿ることになるのである。
「日本海軍最後の勝利!南太平洋海戦」
ミッドウェー海戦後、戦争の主導権はアメリカ側に移ったのである。
しかしながら、日本海軍にはまだまだ戦う力が残されていた。
それは新しく編成された第三艦隊・第一航空戦隊の空母「翔鶴」・「瑞鶴」・「瑞鳳」、第二航空戦隊の空母「準鷹」「飛鷹」の計5隻である。
その他には、空母の護衛に戦艦「金剛」や「榛名」、重巡洋艦「利根」、軽巡洋艦や駆逐艦が脇を固める陣容。
これらの陣容を持って、ガダルカナル島を巡る戦いに駆り出されることになったのである。
殆ど同じタイミングで日本とアメリカは互いの機動部隊を発見し、攻撃隊を発進させた。
この攻撃により日本海軍は、空母「ホーネット」を撃沈し「エンタープライズ」を大破した。
その他には駆逐艦を1隻撃沈し、戦艦「サウスダコタ」に直撃弾1発を与え、撃墜航空機は100機近くに及んだ。
しかし日本海軍の攻撃隊の被害も甚大であり、零戦隊や艦爆隊、艦攻隊の未帰還機も大体100機近くとなった。
これは正規空母1隻分の航空機を失ったことになり、真珠湾依頼の熟練パイロットの喪失は非常に痛手であった。
この戦い以降、日本海軍は航空機の攻撃によって米空母を撃沈することはなくなってしまったのである。
特攻隊は否定できない!
果たして戦争の時、本当に特攻隊は必要だったのかと思つまてしまう時がある。
しかし、今では
旧日本軍のその特攻隊についてを否定したいとは一切思わなくなったのである。
何故ならば、特攻作戦と言う旧日本軍の玉砕があったからこそ、今の日本の精神がかろうじて存在しうるのだからと思うからです。
旧日本軍は我々に何を残したのか?
彼らの精神性や気質から考えると、南京大虐殺や日本は悪い国でした論などの嘘が歴史的検証を経てあからさまになることは、彼らの功績だと思う。
また、旧日本軍がこれまでに戦争時代にやってきたこと、または逆にやられてきたことなどあると思いますが、どれも本当なのか信憑性に欠けるので鵜呑みにはしたくないのである。
日本vsソ連 占守島の戦い
概要
占守島(しゅむしゅとう)の戦いは、昭和20年8月18日~21日に千島列島の占守島で発生した大日本帝国陸軍とソビエト連邦赤軍との戦闘である。
ポツダム宣言受諾後の戦闘であること、戦争末期でありながら日本が優勢に戦闘を進めていたが、すぐに停戦し降伏した事などが特徴である。
戦闘経過
8月17日の深夜から島の対岸カムチャッカ半島のロパトカ砲台から砲撃を受け、翌日未明にはソ連軍が上陸開始した。
ソ連軍は四嶺山まで到達するが、日本の戦車第11連隊が突撃を仕掛けソ連軍を後退させた。
その後日本の独歩第283大隊は最初に砲撃を受けた国端崎を奪還したが、再奪還を目指すソ連と激しい戦闘になる。
しかし味方到着後は優勢となる。
だが、第5方面軍司令官からの戦闘停止命令を受けて日本軍は積極的な攻撃を停止するが、ソ連の攻撃は止まずに19日に交渉で日本が武装解除に同意するまで戦闘が続けられた。
戦果
日本、ソ連共に8000人程の兵士を投入し、日本側は死者256名、負傷者762名 、ソ連側は死者約2,000名、負傷もしくは行方不明約1,000名となっている。
ただし、停戦後に日本軍は捕虜となり、シベリアに抑留されている。
ソ連側の被害が大きかった理由として、歩兵主体であった(日本は中戦車39両、軽戦車25両を投入)こと、上陸地点が狭い砂浜であったこと、天候が悪く適切な航空支援を得られなかったこと等が挙げられている。
評価
ポツダム宣言後の戦闘ということもあり最終的には日本の降伏で終了したが、戦後に奇襲を仕掛けて来たソ連を1度は後退させた戦いとして高く評価されることの多い戦いである。
また、戦闘部隊が所属した第5方面軍司令官の樋口季一郎中将は、ユダヤ人の避難民に満州通過を認める、キスカ島から無傷で味方の撤退に成功する等、非常に評価の高い人物である。
旧日本軍の航空戦力に対する評価
旧日本軍の印象と言えば一般的に思い付くのがやはり、ゼロセンである。
ゼロセンと言えば旧日本軍が誇る最強のの戦闘機だと思われている。
この事実は、自信を無くした現在の日本人に、日本人の誇りとプライドを持たせる事実であるという印象がある。
開戦初期の頃は日本のゼロセンと言えば最強のイメージがありましたが、後に段々と時代が移り変わりゼロセンが後には逆に時代遅れへとなってしまいました。
しかし、
令和の戦闘機F3は、輝かしい
軍事大国日本の幕開けを象徴する戦闘機になってほしいものである。