零式艦上戦闘機の歴史、種類と性能まとめ
零式艦上戦闘機の誕生
零戦とは、日中戦争から太平洋戦争初期にかけて活躍したレシプロ機である。
「九六艦上戦闘機」の後継機として開発されたのが、「十六試艦上戦闘機」(のちの零戦)である。
いわゆる零戦と言われるこの機体は、
非常に軽量で小回りがきき、攻撃力が高く、当時としては驚異的な航続距離を誇っていた旧日本海軍の主力戦闘機であり、正式名称は零式艦上戦闘機である。
この艦上戦闘機は機銃が機種に7.7ミリが2門、両翼に装備されているのが20ミリ機銃の炸裂弾である。
3,000 kmの長大な航続距離・20ミリ機銃2門の重武装・優れた運動性能で、米英の戦闘機に対して、大戦当初は優勢だった。
増槽をつけると3,000キロの航続距離を実現し爆撃機への随伴を可能とし、また徹底的な軽量化によって軽快な運動性能と操縦性を持つ戦闘機であった。
まさに世界最強の名機がここに誕生し、「零式艦上戦闘機一一型」として制式採用されたのである。
太平洋戦争全期間を通じて、日本の主力戦闘機として奮闘した零式艦上戦闘機であるが、当時の日本軍がおかれた状況に応じて、各種型が存在する。
後継機に烈風の開発が行われていたのが、開発の遅れにより、終戦まで日本海軍航空隊の主力だった。
そのため、数多くのマイナーチェンジ機体が存在する。
大戦中期以降は、アメリカ陸海軍の対零戦戦法の確立、ドッグファイトの禁止の徹底、F6Fヘルキャットなどの新鋭戦闘機の投入で劣勢となったのである。
ゼロ戦の種類について
ゼロ戦の型式は、一桁目が機体形状、二桁目はエンジン形式(栄一二型/栄二一型/栄三一型/金星六二型)を表し、それに加えて火器類の違いを示す場合は、型番に甲/乙/丙等を付随する。(例:52型甲)
旧日本軍の戦闘機には、ゼロ戦とその後継機である烈風、紫電、雷電、彗星、月光等あるが、ゼロ戦の種類としては型式の違いによるものとなる。
十二試艦上戦闘機(試作機開発)の歴史
零式艦上戦闘機の試作機で、昭和12年に「十二試艦上戦闘機計画要求書」という政府の要求書から開発がスタートした。
要求の内容は、爆撃機の援護戦闘機として優秀な空戦性能を備え、要撃戦闘機として敵を捕捉撃滅する戦闘能力を有すものというものだった。
要求された上昇力や航続距離や速力は、当時の戦闘機としては無理難題な内容で、かなり意欲的な内容だった。
この要求書は中島飛行機や三菱などのメーカーに渡された。
この試作機が、後に登場する零戦一一型の雛形となっている。
零戦の分類
零戦は主に零戦一一型系統、零戦三二型系統、零戦五二型系統、零戦五三型・五四型系統の4つの系統に分類される。
零戦一一型系統は日中戦争に投入された初期の零戦である。
零戦三二型系統は1942年4月頃から量産が開始され、同年秋頃には実戦投入された系統で、従来の零戦よりも速度・上昇力・上昇限度が向上している。
零戦五二型系統は1943年8月から生産が行われた。最高速度、上昇力、防御面が向上している。
零戦五三型・五四型系統は大戦末期に生産された系統である。
少数が生産された程度で、その用途は特攻であった。
栄枯盛衰 零式艦上戦闘機のバリエーション
ゼロ戦 11型/1940年
開発名称十ニ試艦上戦闘機の先行量産型の意味合いが強い機体(最高速度490km/時)で、実戦に初めて参加したものもこの型からである。
中国戦線にて運用され、中国空軍のl-16などソ連製のやや旧式機を相手に被撃墜なしで全機撃墜という華々しいデビューを飾る。
日中戦争時の昭和15年に実戦配備され、日中戦争の間一機の損害もなく終始無傷であった。
栄一二型エンジンを搭載した十二試艦上戦闘機3号機を元にして作られて、正式採用された最初の零戦である。
零式と名付けられた理由は、ちょどその年が皇紀2600年だったのでその下2桁をとって零式艦上戦闘機となったと言われている。
合計64機が製作された。
主に中国で、重慶への爆撃を行っていた爆撃機の援護機として活躍した。
ゼロ戦21型/1941年
ゼロ戦初の量産モデルで、空母搭載を前提としており、翼端折畳み構造、着艦フックを装着していた。
この型から着艦フックが装備され本格的に艦上機として用いられる(最高速度533km/時)。
昭和16年の真珠湾攻撃で実戦に参加し、昭和19年初頭まで2,821機生産され、大戦初期において海軍機動部隊の要となった。
本格量産型で、一一型を元にして空母への搭載を目的として開発された型である。
中国戦線でガンガン闘っていた零戦であったが空母「赤城」の二階堂機が墜落寸前の事故を起こし、確認の為にテストしたところ、強度不足によって尾翼等が折れるという下川事故(テストパイロットである下川大尉は殉職)が発生、強度が改良されたのが「零式艦上戦闘機二一型」である。
空母へ搭載するために、翼端の折りたたみ機能や、着艦フックなどの機能が追加された。
この型は真珠湾攻撃の空母部隊や高雄空、ラバウル航空隊で活躍した。
ゼロ戦21型は圧倒的な空戦性能、長大な航続距離で連合軍機を駆逐した太平洋戦争序盤の日本軍の攻勢の成功の立役者である。
現在の零戦のイメージはほぼこの型を指している。
機体の軽さを生かした脅威の格闘戦能力から、太平洋戦争の序盤で活躍した機体であったために数々の武勇伝や多くの伝説を生み出すこととなった機体である。
ゼロ戦22型/1942年
21型の機体に栄二一型のエンジンを搭載し、昭和17年末から18年までに560機生産されたが、次の52型へ移行するまでの機体となった。
戦線の拡大により三二型の航続距離減少がとても不評で、急遽三二型の航続距離減少を補うために開発された型である。
ガダルカナル戦に対応するため、翼端を二一型に戻し、航続距離を確保するために翼内の燃料タンクを増やした(最高速度541km/時)。
この頃連、合軍側に初めて無傷に近い零戦が鹵獲され、解析結果が後の新鋭機に活かされるようになる。
ゼロ戦31型
21型の翼端を50cmカットした唯一の角型デザインであり、昭和17から18年にソロモン諸島の戦線で活躍したが、343機程度の生産であった。
ゼロ戦32型/1942年
ゼロ戦32型は、エンジン出力が940馬力から1130馬力(最高速度544km/時)に上がり、主に高空性能や上昇力での性能アップに成功した。
正式採用後、初めて大規模改修された型で、エンジンの栄二一型への換装や、主翼端を短縮したことが特徴となっている。
性能はほぼすべて二一型を上回っているが、主翼を改修した際に燃料タンクを小さくしたことにより航続距離が短くなっている。
外見上の大きな特徴として、翼端が50cmカットされており、米軍機と誤認されたという逸話もある。
反面搭載される燃料量が減ったことにより、強みであった航続距離が減ってしまった。
このことが長距離を飛ぶガダルカナル戦に響き生産数は伸びなかった。
零式艦上戦闘機三二型が登場するものの不評だった
日米が開戦して、
日本海軍の主力戦闘機の零式艦上戦闘機二一型は各地で大活躍していた。
太平洋戦争の初期では、零戦1機で敵機を10機撃墜するなど容易かったそうである。
いや、容易すぎるといったほうがいいのかもしれませんね。
この時の日本海軍のパイロットの技量も世界一でだった。
それと相まって零戦の高性能が発揮されたのでしょう。
そこで二一型を改良した三二型が登場したものの、パイロット達からは「不評」だったのである。
先ず航続距離が1000km低下している事と、零戦の運動性能(旋回性能)が低下しているというからだ。
これはエンジンを大きくしたために、重量が増して燃料を搭載するタンクを小さくしたために生じたトラブルでだった。
ゼロ戦52型/1943年
五二型は、二二型をさらに発展させた型となっている。
外見上の大きな特徴は推力式単排気管がエンジンカウリングから伸びていることである(最高速度565km/時)。
自動消火装置を装備し、20ミリ機銃の弾数も60発から120発に向上し、速力も二一型の533キロから565キロに引き上げられたのである。
翼折畳み構造を撤廃した、ゼロ戦を象徴する最も一般的な種類。
正式に採用されて、終戦までの間に量産された中では最後となった型である。
機種の7.7mm機銃が撤去されて13.2mm機銃を合計3挺装備したことや、主翼と操縦席の防弾強化や防弾タンクの装備など、零式艦上戦闘機の型の中で一番の重武装重装甲化が施された機体となっている。
エンジンの各シリンダーから、直接1本の管で排出する推力式単排気管の採用や、翼端を縮めて三二型と同じ11mになっている事が特徴で、特徴的な濃緑色も相まっていちばん有名な零式艦上戦闘機である。
生産数が零戦各型の中で一番多くて、昭和18年から終戦までおよそ6,000機が生産された。
主に中部太平洋戦線で活躍。
活動は多岐に渡り空母による制空任務や、艦隊や本土の防空任務、爆弾を搭載しての戦闘爆撃機としての攻撃であるが、一番印象的なのは特攻機として多く用いられたのも本型である。
この型は「五二甲型」(急降下速度向上型)、「五二乙型」(前面を防弾ガラス)、「五二丙型」(甲乙の装備+13ミリと20ミリ機銃を搭載し火力が増したが、運動性能が低下し速力も544キロに落ちた)
この頃になると空戦による優位性も失われ、熟練パイロットも減少し、苦戦を続けることになる。太平洋戦争末期の写真などでよく見かけるのも本型が多い。
坂井三郎さんが言っていたタンク
五二型は1943(昭和18)年8月に生産がスタート、同年12月からは主翼内の燃料タンクに自動消火装置を装備し、被弾して火災が発生すると自動的に炭酸ガスを噴射、鎮火させられるようになった。
実は説明書にはこれ書かれていない事らしいのですが、この仕組みは他の戦闘機にもつけられるようになっていった。
ただ変わらないのは、コックピットにおける防火設備がないのは、やはり最後まで変わらないようである。
隼のように、あえてタンクを設置しないで、パイロットに逃げる時間を与えてはくれなかったようだ。
それでも21型の無防御という観点からようやく、パイロットの生還を重視しだした丁度転換期だったのかもしれない。
ゼロ戦53型
52型のエンジンを栄三一型に換装したが、思ったほどの性能向上が見込めず、量産はされなかった。
ゼロ戦62型/63型/1944年
エンジンを栄に換装し、本格的に爆弾を搭載可能にした戦闘爆撃機タイプ。
少数が生産され、量産化された最終タイプである。
零戦の活躍や運用任務は戦争時期によって異なる。
純然たる戦闘機に始まり最終的には爆撃や特攻にも使われ、その生涯の栄枯盛衰ゆえ、現在も多くの日本人が零戦にある種の哀愁をもっている。
53型の胴体下に500Kg爆弾の懸吊架を追加し、跳弾爆撃、急降下爆撃に対応して機体構造を強化した。
型番の違いはエンジンの違いのみであり、昭和20年4月から終戦まで 約600~1,000機が生産されたと推定される。
ゼロ戦64型
特攻専用として「六二型」系統が生産された。
金星六二型エンジンを搭載し、エンジンの大型化に伴い火力、装甲を強化し、機体剛性を強化した。
ただし、実戦を待たずに終戦となり、量産化には至らなかった。
幻のジェット戦闘機「橘花」
太平洋戦争末期には日本軍の戦闘機である零戦はもはや陳腐化していて、マスタングにボコボコにされていた。
もはや戦う術はなかったのですが、ナチスドイツのジェットエンジン技術を断片的に入手し、後は想像力だけで独自にジェットエンジンを開発。
ジェットエンジン搭載の零戦は、橘花とよ呼ばれる、歴史に葬られた幻の戦闘機である。
しかし、そもそもジェットエンジン自体が、大量の燃料を必要としており、石油の備蓄が底をついた日本にとっては、ただの鉄の塊でしかなかった。
もしも、日本に、鉄と石油と優秀なパイロットが残っていれば、日本の空襲は防げたのではないでしょうか?
というよりも、 ジェットエンジンの高速巡航を利用した特攻機として使用すれば、米軍をもっと恐怖に陥れられた思われる。
零戦の終焉
大東亜戦争初期には大活躍をしていた零戦ですが、圧倒的な物量を誇るアメリカ軍に次第に押されていってしまいます。
エースパイロットも次々と戦死。
機体の消耗。
補充も追いつかない。
そうしているうちに、サイパン島の陥落やグアム島の陥落で絶対国防圏も崩壊してしまいました。
連合艦隊もレイテ沖海戦で壊滅。
残された手段が零戦に250kg爆弾をくくりつけて敵艦目掛けて突っ込む、特攻攻撃しかんくなったのです。
零戦も自らの手と海軍の作戦により零戦の命を終わらせていったのです。