オカルトに対する世間のイメージ





オカルトという雑学は怖いのか?

雑学にも色々とあって、陰謀論だったり、宗教だったりと、普通の人が考えたくない話のジャンルにオカルトという、怖いジャンルの雑学がある。

オカルトかなぜ怖いのかといえば、やはり、幽霊とか怨念とかそういった人間の怖がるような心理の学問であるからである。


また、西洋では悪魔召喚などの、 非道的な行為を指すこともオカルトの一種であり、キリスト教的中心主義の社会では、魔女狩りの対象とされてきた学問である。

昨今では、オカルトといえばカラパイアやムーなどの、サブカルチャー雑誌やサイトが普通に多くの人に認知され、昔のような危険な学問であるというレッテルはなくなりつつある。

またオカルトといえば、一言で言っても、様々な直接生活に関係のない雑学が色々とミックスされて複雑になっているため、その実態を統計的に組み立てることは今のところ難しいようである。
しかしオカルト全般に対してどのような学問かといえば、人間の恐怖心と真理の探究という二つの好奇心の狭間に挟まれて、特殊な精神状態で知識を身につけるという、精神的にちょっと負担がかかる学問なんじゃないだろうか?



オカルトの陰謀論的なイメージについて

オカルトと言うと、昔からあるものだが、現代ではどちらかと言うと陰謀論として認知されている部分の方が大きいかもしれない。

基本的にはカルトと言うと聞こえが悪く、あまり良いイメージを持っていない人の方が多いだろう。
けれど、陰謀論と言うとカルトと言うよりも興味を持ってもらいやすい傾向がある。

それは、やはり陰謀と言われると誰がどんなことを企てているのかというところが気になるからだ。


去年も一昨年も、世界的に不安定な情勢だったためか陰謀論が大いに賑わっていた。

衝撃だったのは、あらゆる陰謀論の中でもQアノンの存在だ。

闇と光という対立構造で、なんとあのトランプが光側であるという。
もうあやしい。

けれど、それ以上に衝撃だったのは、とあるアメリカの富豪が獄中で自殺に見せかけて殺されていたという事件。


なんでも、富豪は自分の島を持っており、そこに少女らを誘拐していたという。
これこそ陰謀であってほしいが、こっちはまさかの現実の事件。

こんなことが起きるから、陰謀論などがますます加速していった。
今後はどうなっていくのだろう。

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オカルトのイメージがあるイルミナティカード

「オカルト」と聞くと、みなさんはどんなイメージをお持ちになるだろうか。

「摩訶不思議」「陰謀論」「怖い」「ウキウキ」「胡散臭い」といった言葉が頭に浮かんできます。

中でも、「陰謀論」はオカルトの最も得意とする分野で、それが本当に事実であるのか?ということよりも、とんでも的な内容で私たちを楽しませてくれるエンターテインメントのような存在である。


例えば、3.11の地震は自然に発生したものではなく、どこかの国がスイッチを押したために起こったとされるもの。
いわゆる「人工地震」という仮説を立てて、何件か過去の地震をピックアップしてそれの共通点を探っていくというもの。

それが事実であるかどうかということよりも、例え作り話でも辻褄が合ってしまうと「なるほど‥」と妙に納得してしまうのがオカルトの面白さである。


アメリカのカードゲーム「イルミナティカード」もただのゲームであるが、それに記載してある事柄が世界のことを予言してあるというのはオカルトの世界でも有名である。

カードの内容は、どうにかすれば当てはまってしまうので、いかにも予言のカードのようである。

オカルトのイメージは、正体がよくわかっていないものをみんなで楽しむことができる一種のお遊びと考えるのが良いと思うのである。



決してネガティブなイメージばかりじゃない

オカルトとは、超自然現象を示す言葉でもある。
基本的には目に見えない現象のため、上手く説明すること自体も難しいのではないだろうか。

ニュースやドキュメンタリーなどの番組では、時折、オカルトという言葉を使うコメンテーターや解説者などがいるが、本当に意味を理解できているかはわからない。
「オカルト集団」や「オカルト的な」などというふうに揶揄されることが多いが、オカルトという言葉を都合良く使っているという感が否めないのも事実だ。
オカルトと宗教とを結びつける人も多いが、宗教とはそもそも、非現実的なことといえる。

さまざまな考え方があるのは事実であり、どんな活動をするのも自由だが、現実を否定することで、一体感や連帯感を助長するようなことは控えるべきといえるのではないだろうか。


かつて、大規模な事件を起こした宗教団体があるが、その原点にあったのも反社会的なイデオロギーであったことはいうまでもない。
ややもすると、ネガティブなイメージばかりがつきまとってしまうオカルトだが、例えば、人間が空を飛ぶということなどもオカルトの一種といえる。
笑い話にしか聞こえないかもしれないが、オカルトの意味からすれば、そんなに検討違いのことではないはずだ。



オカルトがカルトになる時

オカルトとカルトは一字違いで似ているから語源が同じなのかと思いきや、そうでもないようだ。
オカルトはラテン語のocculta「隠されたもの」、カルトは「崇拝」や「儀礼」を意味するcultusから由来する。

オカルトの定義は「神秘的、超自然なもの」、カルトの方は熱烈な信者達によって形成された集団の信仰の対象というものだ。

人間は人智の及ばぬ世界に畏れと憧れを持ち、その片鱗でいいから体感したいと思うものだ。

通常は見えないものを見たり体感したりすると、自分はある種の「選ばれた人間」ではないかと思えてくる。
世間一般でありたいのに選ばれた異質の人間だと思えば不幸であり、選ばれた人間であることをある種の特権だと思えばエゴが刺激され、後ろ盾に神がいる自分こそ「絶対善」、何をしてもいいのだという悪しきカルトになる。
カルトはカルチャー(耕す)の意味もあり、超近代化に耕し尽されたこの世界には、至る所に危うい誘惑があるのではないだろうか。



宗教とSNS文化はカルト的だ

オカルトといえば真っ先に誰もが危険なイメージを持つだろうが、宗教の勧誘は案外身近なところにある。

昨今の宗教では、若者が大学で声をかけられるというのである。
しかも、優しそうな人たちだったというのだ。

加えて「あのような親切な方々が宗教とは、信じられない」と口にする。


きっと、ネズミ講なんかもそうだろう。

宗教と同じではないか、それはネズミ講ではないかと指摘されている団体の手口も同じだ。
これはネズミ講ではない、立派なビジネスである。

やれば必ず儲かりお前も幸せになると謳い、高額な商品を買わされる、いや、気が付けば自らすすんで買うというのだ。


その後、どうなったかは聞くまでもない。

孤独な人間に彼らは「俺たちは仲間だから」と声をかけ、一緒に勧誘をし失敗をすれば「あの人にはこれの良さが分からないんだ。俺たちは分かるよな、仲間だ」と一緒に批判し、まさしく特別な仲間となる。

これを宗教と言わずして、なんというのであろうか。
宗教の恐ろしさは集団であることに尽きる。

最も気をつけなければならないのが、初めに言ったような案外身近にあるということだ。

たとえば、近年のSNS文化もそうだ。
周りの良いと思ったものに良いと答えるのである。


誰かが良いと推して、また誰かが推して、バズリ良いものがさらに過剰に付加価値をついて良いとされるのである。

集団の良いとするものに、考えもせず”いいね!”をしていないだろうか。



オカルトは趣味の一種である

自分自身は「オカルト」について関心はなく信じてもいない、一般人から見ればオカルトは未知の世界の幻想にすぎないだろう。
個人の意見ではあるが、例えば、アイドルを「尊い」と崇めるオタクとオカルトを信じて活動する人は非常に似ている心理を持っていると思う。


みんなここではない何処か非現実的なモノへ興味や神秘というモノへの憧れを抱いているのである。
オカルト宗教もまた、同じだと思う。

一般的な宗教を信仰する人と同じように何か心の支えとなり人生を道しるべになるものがたまたま「オカルト」であったというだけに過ぎないのではないか。

オカルトは趣味の一種であるとタイトルを付けたが、信じたいものを信じることはとても大切だ。
はたから見たら馬鹿げていたり、非現実的であったとしても本人がそれを心の拠り所にし、他人に強制するわけでもないのであれば、そういった人がいてもいいと私は考える。

また、オカルトと言えば人類滅亡説など過激な発言で世間を賑わせる事もあるが、私はそういった恐怖を感じながら死ぬよりも何も知らずに人生を全うして死にたいと思う。



    

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