天理教とはなんだ
天理教(てんりきょう)という宗教は奈良県の天理市に 総本山がある日本発祥の仏教系の宗教であり、意外と歴史は古く江戸時代末に成立した宗教の一つだと言われています。
天理に拠点があるから天理教という名称になっています。
現在では日本で200万人の信者と1万6000もの大小合わせた教会が存在していると言われています。
この宗教は1838年、つまり180年以上前に、
中山みきという教祖が天理教という宗教を開いたようです。
中山みきという女性は元々は農家の主婦だったのですが、1838年に長男の病気を治すために御祈祷を行ったことが天理教の始まりとされています。
中村美紀はご祈祷の最中に天理教の親神である
天理王命(てんりおうのみこと)に憑依されたことがきっかけで、 中山みきは親神の社となって天理教の教祖になったのです。
天理教は中山みきの説いた
人類創造神の教えを信仰している宗教であります。
現代では様々な宗教を統合した包括宗教法人として、 都道府県知事か文部科学大臣に認可を得ている宗教法人格の団体です。
天理教の目的は、宗教儀式を行い教義を広めて、信者を増やすことです。
天理教は
仏教系の宗教であるが神道の影響も色濃く受け継いでいます。
そのために中村美紀の教えは、みかぐらうたと呼ばれる歌と踊りの形式になっていた。
基本的には日本人独特の文化や自然観に裏打ちされたような教義を展開しているといえます。
当時、教育を受けていない人や子どもにとっても簡単に覚えられるもので、 この時代の人々にとってわかりやすいものだった。
天理教という宗教は
キリスト教系の宗教の教義の影響は受けていないようです。
天理教の宗教用語は基本的に大和言葉のような、 日本語が用いられています。
「みかぐらうた」
天理教のみかぐらうたとは、天理王命(てんりおうのみこと)が 地上に人間を創造した時の考え方である「陽気ぐらし」に則って明るく歌って踊ることを推奨しています。
よって天理教の特徴は、比較的穏やかな宗教団体であり強引な宗教勧誘などをあまり行わないことになっているようです。
「おつとめ」
天理教は「おつとめ」と言われる宗教儀式があり、七五七五調のリズムでその独特の教義を展開し、信者に言わせれば心が勇んでくるという体感があるようです。
家族が天理教を信仰していた
両親と祖母は天理教の信者でした。
誤解の無いように申しますが、天理教自体はちゃんとした宗教団体です。
ただ教えと信仰している信者の隔たりに自分は信仰しないと選んだのです。
勿論、天理教の先生方の教えや理念はとても素晴らしいものがあります。
人を助けて、社会に貢献するというのは私は考えとしては素晴らしいと思います。
しかし、昔の天理教は支部によっては、お布施や勧誘のノルマがあるとされ、 昭和60年には天理教の幹部が8000万円も脱税したり、支部協会長が他界したり、 銀行強盗をするなどノルマ絡みの金銭的な問題が存在していました。
現在ではそのような金銭的な社会問題は発生しておらず、多くの信者はお布施を実践してないというだけです。
奇妙な治療
天理教の中でもっともおかしいと思ったのがごふうさんというものです。
ごふうさんとは何か?
神棚にいろいろなものをお供えするのですが、お米もその一つになります。
正確にはもち米かもしれません。
それを紙に包んで常に祖母は持ち歩いていました。
腹痛などの時に、それを飲むと治るという意味の分からない迷信の治療が始まります。
風邪ひいたときとかでもそうですね。
生米なのでかえって体によくないように思いますが、子供ながらに私も信用して飲んでいました。
今考えたら相当変ですね。
「おさずけさん」
具合の悪いひとに「おさずけさん」というのをやります。
念仏を唱えながらやるんですが、
病院行ったほうがいいように思います。
寝ていなければならない病人をなんだかわからない風習で、こういうことするのはかえって病気を悪化させるのではと成人してから思うようになりました。
しかし信者はこれらごふうさんも含めて真剣に信じております。
馬鹿にしているわけではないのですが、
論理的に相当おかしいので私は信仰していません。
それより人間性がひどい人が多いように思います。
ではなぜ問題のある人を受け入れるのか
ここがもしかしたら天理教の一番素晴らしいところかもしれません。
親鸞和尚も言っていますが、悪人は反省をしているから救われなくてはいけない。
おそらくこの考えに近いのが天理教だと思います。
ですから、少し離れて生活をすると本性が出るわけです。
うちの母は開き直る動機としてこの宗教を使っています。
そういう意味では間違った使い方をしていると子供ながらに思っていました。
現在は
信者もどんどん減ってきて、全国に教会がありますが、かなり衰退している状況です。
子供がその意思を引き継ぐことが多いのですが、私のように現実の姿を見て離れていく人もいるのだとは思います。